根府川道場の滝行合宿に参加した。
以前数回参加した断食合宿は、参加者の方々の目的も様々でヨーガや瞑想を行ってない人も多く、それはそれで貴重な話が聞けることもあって良かったが、滝行合宿の参加者の方々は、普段から真剣に瞑想を深めていらっしゃるようだった。
滝行合宿の参加者の人々と、神前での瞑想
1日目と2日目、それぞれ1時間ほど、神前で瞑想を行う機会があった。
皆さんそれぞれの坐り方で、坐物の重ね方なども自分なりのスタイルで、慣れた雰囲気で瞑想に入っておられた。
普段から習慣的に瞑想を重ねていらっしゃるのはすぐに分かった。
集中する対象
集中する対象も、様々なように感じられた(実際に聞いたわけではなく、瞑想中のオーラから察するに)。
私の個人的な感覚ではあるが、道場長は中央脈管などの部分的な感じではなく「全体」、肉体すべてからさらに周囲の空間にまで溶け込んでいるような雰囲気に感じられたので、そのような瞑想をされていたのかと思われる。
私は主にプラーナーヤーマに集中していたが、滝行・水行の効果もあってか、肉体的には短時間で十分整ったので、先輩方の瞑想しているその場全体に意識を向けてみていた。
心を乱されるわけでもなく、瞑想を深めている先輩方と比較評価することもなく、ただありのまま観ていることができた。
後から考えると、肉体的にだけでなく各微細身も整えていくこともできたかなと思ったが、せっかくの機会なので皆さんのオーラを感じ取る機会にした。
何のために瞑想をするか
本当に真剣に瞑想を深めている人々を観ながらひとつ感じたのは、「何のために人は瞑想をするのだろう?」ということだった。
1日に結構な時間を費やして、瞑想を行っているのだろう。
瞑想のほうが主となっている人もいるであろうし、もはや瞑想以外にはなにもなくそのまま入滅するという人もいるかもしれない。私もいずれはそうなるかもしれない。
しかし多くの場合、普段の活動を、迷いなく集中し、研ぎ澄まされたものにしていくために瞑想を行うということかと思われる。
瞑想初心者にとっては、もう少し具体的に、心を落ち着けて体の調子も整える、といったところが目的になることも多いであろう。
深めていくと、瞑想の対象が肉体ではなく微細なものになっていくのであろう。
私も普段の生活で肉体的に少し調子が悪いところがあると、肉体的な対象に集中した瞑想を行ってしまうことが多いが、「もっと微細なところに根本的な原因がある」ということを思い出して、対象を微細なほうへ移していくようにしている。
ヒーリングでも、症状の原因となっている部分は肉体上ではないことが多いので、微細な感覚が必要となる。
ただ、わりと忘れてしまって肉体に感覚を向けてしまいがちになる。それだけ物質世界の引力は強い。
肉体に執着せず、もっと微細なものに感覚を向けるようにしていこう。
見えない色を見る、聞こえない音を聞く。肉体で感じられる周波数帯を超えた波が、無数に飛び交っている。
それを感じ取り、コントロールできるようになることで、変えられないと思い込んでいたものが、変えられるようになっていく。
参考:セルフケア論
Amazon:沈黙の声/H・P・ブラヴァツキー (著)