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研究の軌跡_20231121 バランスと愛

さまざまな心身の異常や、病気といったものは、「偏り」によって生まれる。

バランスポーズをする上で、たとえば下腹部に意識を置くとする。そうしたら、他の部分の意識は薄れるので、それもまた偏りとなる。

とはいえ、多くの人は顔に意識が集中しているので、それに比べればかなり安定するため、初心者向けの指示として「下腹部」や「足」など下の方へ意識を置くようにすることは有効である場合が多い。

しかし偏りが慢性化すれば、いずれは異常を生み、病気やコリなどにつながる。下腹部ばかりに集中していては、いずれ腸や生殖器に異常が出てくるかもしれない。

 

偏りをなくすにはどうするべきか?

均一性、全体意識、全てを平等に包み込む意識、結局それは「愛」の純粋な形、といったものかもしれない。

 

「境界線」がある以上は、その両側では何かが異なっており、偏りが生じていることになる。

体の左右、上下、前後、そして輪郭、様々な境界線を意識することで、一旦はうまくいくことがある。

原因不明の症状に苦しんでいる人が、病名という境界線を設定されることで、一旦は安心感を得ることもある。

その境界線は、強烈な偏りを生み、その中に閉じこもり、自分とその境界線内にいる人々を守ろうとし始める。場合によっては外側に対して攻撃を始める。

世界の国境や宗教の違いなども、結局はこのような原理で成り立ち、その結果多くの偏りと歪みが生まれ、争いはなかなか絶えない。波はいずれ鎮まるであろうけれども、今は波の只中にいる。

しかし、あえて我々はそういう「分離の世界」に生まれてきた。偏りがなくては、物質は存在しない。この世界にとって偏りは必要である、あるいはこの世界は偏りそのものである。

そこで、どのように振る舞い、どんな経験をするのかは人それぞれ自由である。

 

境界線というものは、内部だけで成り立っているものではなく、外と内がセットになって成り立っている。

外もあるのだという意識で、内を注意深く観れば、外も内も全て分かる。

 

左右を整えれば、左右の境界線である真ん中のスシュムナーも自ずと整う。

 

整えるには、「整えよう」という意図を加えず、ただ見守る。

注意深く観察するために、一旦は部分に意識を向けるとしても、そこをコントロールしようなどとは思わないようにする。

 

ただ見守る。干渉しない。結果をジャッジしない(善悪・二元性から脱する)。

無関心になるわけではない。しっかりと見守る。しかしコントロールしようとしない。結果に良いも悪いもない、全ては経験である。

 

左右のバランスを整えたいなら、左右を均一に、しっかりと見守る。

見守るという愛を、オーラなどでイメージしても良い。均一で温かいオーラで全体を包み、浸透させる、というイメージも有効である。そのオーラは、見える人には見えるし、ほとんどの人は感じ取ることができるものである。

歪んだ偏りのある、エゴにまみれた偽物の愛は、それなりの結果をもたらす。たとえば「家族を愛する」というのは、「家族以外を攻撃する」ということになりかねない。外も内も、均一に見守ることが、できるだろうか。外が悲惨な状況で、内だけが幸せになるなどということはできないと、気づくことができるだろうか。

 

そして自分の肉体という輪郭もまた、外側の世界とセットで成り立っている。

輪郭を尊重しつつも、外側も内側も同様に尊重する。

輪郭が悪だとか不必要だとかではないのは、それこそがこの物質世界であるから。輪郭を持ったからこそ、我々は他人といろいろな交流ができ、いろいろな経験ができる。

肉体があるからこそ、別の肉体を持つ人と心を通じ合わせるのは難しいけれど、通じたときの喜びがある。国境があるからこそ、争いもあるけれど、文化の違いを楽しむことができる。

世界を、全体を、無限を、均一な愛で包むようにして、しばらく待つ。

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