人を変えるのはなかなか難しい。
変えようと思って接すれば多くの場合、反発を生む。どれほど相手のことを想っていても。
「あなたのため」というのもほとんどはエゴかもしれない。エゴの全くない愛だったとしても、愛がわからない人には歪んで伝わる。
甘い言葉で支配しようとしてくる人々も増えており、大衆は変化に対してさらに慎重になる。そういった支配欲のある人々もまた、自分に自身が無く違和感と恐れを抱えて生きている。なんとも異様な緊張感のある世界である。
変化は、自発的に起こる。
自発的な変化には、気づきが必要。
気づきを導く。それもまた難しい。
タイミングや方法、最適な気づきを導くために、私は試行錯誤してきた。
いっそ催眠や洗脳のほうが楽なのかもしれないと思うほど、自然な変化を導くのは難しい。大衆を煽動するほうがよっぽど楽かもしれない。
大衆に埋もれるほど、多くの人は気づきを失っていく。
本当の気づきは、極限まで孤独になり、かつ極限まで世界と繋がる、一見真逆のような心境の狭間に湧き上がる。
虚構の安全にすがり、大衆に埋もれ、違和感から逃げ続けている人々。
もし違和感を指摘すれば、パニックになり、虚構の足場への信仰に執着し、真実を全力で否定し攻撃する。
そんなものが真実であろうはずがない。
私は少しずつ慎重に、虚構の足場を自ら崩してきた。
もちろん勇気が要る。執着を捨てねばならない。真実を見極めるための、繊細な気づきが要る。
しかし違和感をそのままにしておきたくはなかった。
そのままではいけないという確信はあった。
霧の中を、慎重に歩いてきた。
知識はヒントにはなるが、重要な気づきは外から得られるのではなく、自然と降りてくるような、あるいは湧き上がってくるような感覚だった。
あてになるのは自分の直感だけ。それを惑わす幾千の情報。
しかし直感を磨くことを助けてくれる、霊性の高い人々もいた。答えそのものを教えてくれることはなかったとしても、霧を少し晴らしてくれるような存在は、いつも周りで見守ってくれている気がした。
そうして歩んできた自分の足跡は、誰かの役に立つだろうか?
その足跡を正確に踏んで私を追ってきたとしても、同じ気づきは得られないかもしれない。
しかしこの経験は、なにかの役に立つかもしれない。
気づきを得るきっかけやタイミングは様々。
今役に立たないとしても、10年後に響くかもしれない。
変化は自発的に起こる。
あまり変わりたくない人には、その段階に合った接し方をしよう。
清々しく変わった姿が、私には見えているけれど。人生は限られているから、歩みを速めて欲しいと思ったことも多いけれど。そこへ急いで引っ張っていくのはやめにしよう。
今、どういう状態なのか、ありのままに気づいて、自分で歩き出せるように。
私は、鏡のように、触媒のように、透明に、磨き続けよう。