余計なことをせず、頭の働きをおさえてしばらく待つことで、心身は整っていく。
自己治癒力・バランスを整える力は、本来備わっているもので、それを邪魔することをしなければ、自然とその力が働きだすはずなのである。
しかし、それもなかなか難しい。
均一にしようとか、全てを委ねようとか、頭ではわかっていても、やはり偏りは生じる。
そしてすぐに人は忘れて、長年染み付いた、癖にまみれた偏った生活に戻ってしまう。
では、それを一瞬でどこでも思い出せるような、イメージ法やキーフレーズなどがあればどうだろうか。
「愛」という言葉のイメージ
完全に脱力して委ねるというのは難しい場合は、均一な意識で包む、という少し積極的な方法がまずは良いかもしれない。
そのとき、どんな意識で包むか。
「愛」というのがひとつの答えかもしれないが、それもまた使い古されすぎて人それぞれイメージがついてしまっている。
偏愛、執着といったものが「愛」であるように感じてしまう人も多いように思える。
本来、愛とは二元性を超えたものであるはずであり、だからこそ「均一」を成し得るのではあるが、もはやそれは現代における「愛」という言葉とは異なるイメージなのかもしれない。
「自分らしくあれ」
いろいろな言葉を試してみたが、「自分らしくあれ」というのがひとつ有効な例かもしれない。
心と体、全ての部分に対して、「自分らしくあれ」という気持ちで見守る。
輪郭あるもの全てには意志があり、それぞれが「自分」を持っている。
臓器にも筋肉にも骨にも、細胞にも意志がある。
余計な指示がなくなったとき、それらは自分なりに動き始める。
急に指示がなくなったら、最初は何をしていいかわからない者もいるだろう。
周りを気にして、動けないこともあるかもしれない。
でもいずれ、自分が何のために生まれたのかを思い出し、使命を果たすため、自分なりに動き始める。
二元性を超えた「自分」から、全てを見守る
「自分らしくあれ」
そこには良いとか悪いとかはない。二元性を超えている。
そういう気持ちで包んだ時、細胞や原子のレベルまで意識が行き渡り、そして外側の世界まで拡げていけそうな気がした。
使命に気づいた者たちは、自然と湧き出るエネルギーを存分に活かして、自分なりの表現をする。
そのとき心身は清々しく機能し、それらを統括する「自分」もまた、使命を果たすことができる。
さて、「自分」の捉え方もまた多次元的であり、人それぞれ異なっている。
「私」とは何か。
その究極の問いに対して、一歩踏み出すきっかけにもなるだろう。自分らしくあれ。