最近、少し難しい症状の相談をされることが続いている。
相談してくれるということは、何か私に可能性を感じてくれているということか。
症状の原因は、いろいろあるらしい。
肉体的な欠損、マインドの問題、カルマ(宿命)、どれによるものかによって、アプローチは変わるのだろう。
しかし、カルマによるものだからあきらめなさいというのも酷である。本当にそれがカルマなのか?どうしようもないのか?
どうしようもないのかどうか、を判断する基準はなんだろうか。
おそらくそれは、自分自身が、変わった姿をイメージできるかどうかというのが一つの鍵であろう。
私は昔から、その人が変わった姿をイメージできてしまうので、さあそこへ行こう!と背中を押してしまうことが多かったが、それもなるべくやめるようにした。
本人が、イメージできなくては、進めないのである。
全ての物質は、イメージの具現化であろう。
イメージできるものは、全て実現できるはずも言う人もいる。
それが正しいかを示すのは難しいが、少なくとも、イメージしなければ実現はしない。偶然を待つだけになってしまう。
こんな精細な人間が、明確なイメージなしにつくられるだろうか?人間がつくられ維持される過程には、強い意志、繊細なイメージを感じる。
変わるための鍵は、変わった自分を、純粋に、疑いなく、絶え間なくイメージできるかどうかだ。
たいていはそれができない。いまのままの自分という引力にひっぱられ、良い状態のイメージは容易く途切れる。
いきなり全快した状態や、飛躍的に劇的に変わった自分はイメージできなくとも、すこーし変わった自分はイメージできるだろうか。
その状態にふさわしいマインドを、まずイメージする。そのような良い状態の自分は、どのように考え行動するだろうか。
良い状態になった自分が感じる高揚感は、どうだろうか。
ジョー・ディスペンザ氏は、その先取りした高揚感こそが、変わるためのエネルギーとなるとも言っている。
イメージしよう。
純粋に、疑いなく、絶え間なく。
飛躍できなくても、一歩先がイメージできれば良いのだ。