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研究の軌跡_20221216

最近、少し難しい症状の相談をされることが続いている。

相談してくれるということは、何か私に可能性を感じてくれているということか。

症状の原因は、いろいろあるらしい。

肉体的な欠損、マインドの問題、カルマ(宿命)、どれによるものかによって、アプローチは変わるのだろう。

しかし、カルマによるものだからあきらめなさいというのも酷である。本当にそれがカルマなのか?どうしようもないのか?

どうしようもないのかどうか、を判断する基準はなんだろうか。

おそらくそれは、自分自身が、変わった姿をイメージできるかどうかというのが一つの鍵であろう。

私は昔から、その人が変わった姿をイメージできてしまうので、さあそこへ行こう!と背中を押してしまうことが多かったが、それもなるべくやめるようにした。

本人が、イメージできなくては、進めないのである。

全ての物質は、イメージの具現化であろう。

イメージできるものは、全て実現できるはずも言う人もいる。

それが正しいかを示すのは難しいが、少なくとも、イメージしなければ実現はしない。偶然を待つだけになってしまう。

こんな精細な人間が、明確なイメージなしにつくられるだろうか?人間がつくられ維持される過程には、強い意志、繊細なイメージを感じる。

変わるための鍵は、変わった自分を、純粋に、疑いなく、絶え間なくイメージできるかどうかだ。

たいていはそれができない。いまのままの自分という引力にひっぱられ、良い状態のイメージは容易く途切れる。

いきなり全快した状態や、飛躍的に劇的に変わった自分はイメージできなくとも、すこーし変わった自分はイメージできるだろうか。

その状態にふさわしいマインドを、まずイメージする。そのような良い状態の自分は、どのように考え行動するだろうか。

良い状態になった自分が感じる高揚感は、どうだろうか。

ジョー・ディスペンザ氏は、その先取りした高揚感こそが、変わるためのエネルギーとなるとも言っている。

イメージしよう。

純粋に、疑いなく、絶え間なく。

飛躍できなくても、一歩先がイメージできれば良いのだ。

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