夢でも大きな学びがある。
誠実に、敵意なく、問答をしたが、結局は時間の無駄だった。
問答によるコミュニケーションの限界。
言葉の限界。
「我」への執着が一片でも相手にあれば、結局は「我」を守ろうとする。
自分の、相手の、透明度次第で、最適な表現は異なる。
どんなに誠実に伝えても、それが「望ましい」結果につながるとは限らない。
「望ましい」も「私」のエゴが入っている場合がほとんどであり、無数の可能性の中のひとつにすぎない。
どんな結果になろうとも、それを経験として受け容れるか。
あるいは、なんとしても「良い」結果につなげるために、一心に祈るか。
言葉ではなく、魂レベルでのコミュニケーションができるならば、お互いに最適な道を自然に選ぶことができよう。
純粋な祈りは、魂レベルの波動となる。
純粋な祈りには、一片の「我」もあってはならない。
魂レベルでは、「我」の垣根など無い。
「我」が一片でも入れば、それは魂レベルの波動ではなく低い波動となる。
「良い」結果とはなんなのか?「我」をなくして世界を観れば、自ずとわかる。
つまり純粋な祈りとは、恣意的・具体的なものではなく、「神(魂)の導きのあらんことを」から始まるのかもしれない。
私が神社で拝むときも、具体的な願い事ではなく、そんな感じである。