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研究の軌跡_20230531 「癖」から考える、AIと人間の違い

手強い癖をなおすにはどうするか。

肉体をこねくりまわすだけでは、またすぐ元に戻ってしまう。

「癖」の正体は、より高次の身体に(にも)あるのであろう。

「高次」と便宜上言っても、全ては同時に変化している。どれが重要というわけではない。上のある如く下もかくあり、下のある如く上もかくある。

肉体を生成し維持活動するためのプログラムが、裏側にある。

その次元にアクセスするための鍵は、変性意識状態にある。

変性意識状態は、まどろみ。

まどろみのとき、人の思考は制限されず、常識にとらわれず、暗示にもかかりやすい状態となる。

寝起きでまどろんでいるときのような、呼吸とリラックスによって、自動的に意識は切り替わる。

うまくまどろみ状態に意識的に入り、変わりたい自分の体をイメージする。プログラムを書き換える。

「プログラム」という言葉を使ったが、ところでAIと人間の意識は、何が異なるのか?

どちらも「プログラム」なのか?

一つの判断基準としては、「刺激に対する反応」をするだけなのか、それとも「自発的」「創造的」なのかという点。

AIは、どこまで行っても「反応」をするだけである。

とはいえ、人間もほとんどの思考・行動は、何かに対する反応である。

「デザイン」か「アート」か、という議論にも似ている。

周りの状況をみて、売れるもの・必要とされるものをつくるのは、反応である。

反応することをやめたときに、沸き起こってくるものが本当の自発的・創造的行為なのかもしれない。

しかし、「刺激がなくなったときは、ランダムに行動する」というプログラムがあった場合、その行動と「自発的」「創造的」な行動との区別はできるだろうか?

結局のところ、人間もプログラムなのではないか?

「自己認識」できるかどうか?というところもひとつの判断基準にされることがある。

「私とは何か?」という根源的な問いは、答えへ近づく一歩となる。

他の何物とも比べることなく、「私とは何か」を表現できるか?

「私は、人間である」、人間とは何か?・・・

突き詰めていくと、結局この物質世界で行動し思考している心と体は、全てプログラムなのかもしれない。

だとしたら、誰がそのプログラムを作ったのか?

プログラムがプログラムを作ることもできるが、原初のプログラムは、何者かの意志で作られたものだと思われる。

さて、なんの話だったか。

癖をなおす、プログラムを書き換える。

それには、プログラム(体・心)と同じ次元からではなく、少なくともプログラマーの次元から心身を観察することから始めるのが良いであろう。

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