ハタヨーガの古典の中で、最も体系化されているとして重要視されているハタヨーガプラディーピカー。
今回は、いくつか追加で述べられているムドラーと、それらによって至る三昧の状態について説明されている部分を紹介します。
以下、日本語訳は「ヨーガ根本経典/佐保田鶴治」から引用しています。
シャーンバヴィー・ムドラー
4.36 心のはたらきの的(まと)を内部のチャクラに定め、視線を外界へ向け、まばたきをしない。これがシャーンバヴィー・ムドラーである。この法はヴェーダや教典には秘されている。
4.37 ヨーギーにして、内心の的(チャクラまたは梵)のなかに心と気を没入させ、眼星(ひとみ)を動かさない視線でもって、外界の下方を見つつしかも見ないでいるならば、このムドラーはシャーンバヴィーとなる。このムドラーはグルの恩恵によって得られる。その時、空と不空の相を離れた至高なるシャーンバヴィーの実体が顕現する。
現代ヨガではシャーンバヴィームドラーは眉間を両目でみつめるやり方が一般的ですが、ここでは眉間と指定しておらず、いずれかのチャクラへ心を定めながら、目線はうごかさずに・まばたきをしないでいるというやり方のようです。
「見つつ見ないでいる」というのは、目は開いているけれども見えているものへ意識を向けてはならず、意識は内部のチャクラへ向けられていなければなりません。
ウンマニー・ムドラー
4.39 両眼の眼星を〔鼻頭に現われる〕光に結合して、眉をいささかつりあげるべし。さすれば、前記のヨーガ(シャーンバヴィー)の仕方そのままにこころを統一しながらヨーギーはその瞬間からウンマニー行者となる。
シャーンバヴィームドラーと同様に眼を使ったムドラーですが、ここでは鼻先に集中せよという指定があります。
サッチャナンダ氏の示すウンマニームドラーはこれとは異なり、ビンドゥ(後頭部の上部)から背骨にそって順番に各チャクラに集中を移しながら眼をだんだんと閉じていくというものです。
サッチャナンダ氏は鼻先を見るムドラーはナシカグラ・ドリシュティとして示しています。アシュタンガヨガのドリシュティとしても似たような「鼻先を見る」というものが出てきますが、ムドラーとして行われるものはアシュタンガヨガでアーサナ中に行うものよりも寄り目にして強力に集中するイメージです。
ケーチャリー・ムドラー
4.43 左と右の気道にある気が中央のスシュムナー気道に流れ入る時、その場所で疑いなくケーチャリー・ムドラーは成立する。
4.49 ヨーガの深い眠りが訪れるまでケーチャリーを修習すべし。ヨーガの深い眠りを得れば、いかなる時にも「とき」は存在しない。
ケーチャリームドラーのやり方については第3章で述べられていますが、ここで改めてその効果について述べられています。
ピンガラ(日)とイダー(月)の気道に流れている気をスシュムナー気道へ流し込むとき、月から流れ出る甘露(ソーマ)が日で消費されなくなり、死や老いから自由になる(「時」から自由になる)ということが改めて示されます。
三昧の状態を表す描写
4.50 ヨーギーにして意を無対象な状態な状態において、何事をも考えないならば、彼は自己の内外の虚空のうちに、瓶(かめ)の如くに、泰然と立ちはだかるであろう。
4.55 虚空のなかにアートマン(真我)をおき、〔さらに〕アートマンのなかに虚空をおき、〔最後に〕すべてを虚空から成るものとさとって、何事をも考えない。
4.56 三昧に入っている時には、行者の内もからっぽ、外もからっぽ、まさに空気中の瓶の如くである。〔同時にまた〕内もいっぱい、外もいっぱい、まさに海中の瓶の如くである。
三昧の状態を表すために、ここでは色即是空・空即是色のような文章が並びます。
私たちは一般的に、身体の輪郭を境目にして自分と周りを区別して考えていますが、その内側にも外側にも同じように世界が広がっています。
ヨーガは「平等の境地」であると表現されることもありますが、自分だと思っている輪郭(ここでは「瓶」)の内と外を区別せず、世界と一体となっているような状態を表しています。
4.57 三昧に入らんとする行者は外境を思量してはならない。内境を思量してもいけない。すべての思量を捨て、何事をも思量してはならない。
4.58 万物はすべて想念だけの産物である。それらすべて想念にすぎないものがらに対する〔実有の〕見解を捨て、無分別智に依って、ラーマよ、決定的な寂静に至れ。
4.62 知られるべき事物を完全に捨てることによって、心理的な現象も消滅する。心理的な現象の消滅が実現したとき、真我独存の状態だけが残る。
「真我独存(カイヴァリヤ)」はヨーガスートラでも述べられているゴールの状況ですが、ここでは万物を想念の産物、すなわち幻(マーヤー)と捉える不二一元論に基づいて説明されています。
プラクリティとプルシャで分けて考えるヨーガスートラの二元論とは異なりますが、結局のところ、同じ境地へ至ることを示しています。
参考記事:ヨーガスートラ解説 3.51-3.56 〜識別知を得て、独存に至る〜
4.53 月の孔から流出した甘露をもってカラダを、頭から足に至るまで、あまねくうるおすべし。そうすれば、すぐれたカラダと勇気と体力を得るに至るであろう。
これは先日の記事で紹介した、「軟酥の法」に近いものがありますね。ハタヨーガにも、他のいろいろな瞑想法にも、同じような手法が見られます。実際に治病などにも用いられて、それなりの効果があったのでしょう。
ナーダ・ウパーサナ
4.65 真実在をさとり得ない愚人たちにも受け入れられる行法で、ゴーラクシャナータが説き示した方法がある。それはナーダ・ウパーサナ(秘音観想法)と呼ばれる。
4.67 ムクタ坐を組み、シャーンバビー・ムドラーをなして、右の耳で、内部の〔スシュムナー気道から発する〕音を、一心に聞くべし。
4.68 耳、眼、鼻、口を指でふさぐべし。そうすると、調気によって清掃されたスシュムナー気道から、汚れのないはっきりした音が聞こえてくる。
ハタヨーガプラディーピカーの中でよく出てくる「ナーダ」という音の重要性がここで改めて示されます。
ナーダは心臓のチャクラから聞こえてくると言われる妙音です。ここではスシュムナー気道から聞こえてくると示されています。そのためには、プラーナーヤーマによってスシュムナー気道を浄化する必要があるといいます。
4.68節で示されている行法は、現代ではヨーニムドラーあるいはシャンムキームドラーなどと呼ばれているものに近いようです。
プラティヤーハーラ(感覚制御)のための行としても用いられますが、顔の周りにある感覚器官を指で一気に塞いでしまうことによって、外からの刺激をシャットアウトし、内部の感覚や音に集中するというムドラーです。
ダンテス・ダイジ氏はこのヨーニムドラーをクンダリニーヨーガの行として示していて、感覚器官を閉じることによって「肉体の死」を体感する意味があると述べています。肉体的な感覚を手放すことによってはじめて、ナーダ音のような精妙な感覚が得られるのでしょう。
(次)ハタヨーガプラディーピカー概説 4.69-4.114 〜ラージャヨーガへ至る段階〜
(前)ハタヨーガプラディーピカー概説 4.1-4.34 〜ヨーガが成った状態を表す、様々な表現〜
参考文献
「サンスクリット原典 翻訳・講読 ハタヨーガ・プラディーピカー」菅原誠 (著)
「Asana Pranayama Mudra Bandha 英語版」Swami Satyananda Saraswati (著)