「蘇(そ)」が急に流行り出したようです。そこで思い出した健康法・瞑想法を紹介します。
重病も治し、心身ともに健康になると言われる瞑想法「軟酥の法(なんそのほう)」、あるいは「軟酥鴨卵の法(なんそうおうらんのほう)」とも呼ばれます。
「軟酥の法」の「酥」と「蘇」が同じものなのかというのは諸説あるようですが、私は固めのヨーグルトかチーズのようなものだと思っていました。
軟酥の法では、これを頭の上に載せているとイメージするので、あまりべちゃっとしたものだと都合が悪そうです。
この記事の目次
白隠禅師について
軟酥の法を人々に伝えたのは、白隠禅師。
白隠禅師については、以前「坐禅和讃」の記事で紹介しましたが、禅宗の中興の祖とも言われる江戸中期の人物です。
この方は、禅の教えだけでなく健康法についても数々の重要な教えを残しています。
軟酥の法のやり方
軟酥の法は、白隠禅師が記した「夜船閑話」という書の中でやり方が示されています。
白隠禅師が師匠の白幽先生からやり方を教わった場面を、白隠禅師―健康法と逸話/直木 公彦で示されている現代語訳から引用してみます。
まず、色うつくしく香り高い仙人の神薬を種々煉り混ぜて鴨の卵大にまるめた丸薬が頭の上にのせてあると想像するのである。その軟酥の卵は、香味妙々にして、しばらく頭上にのせてあり、しだいに体温で溶けてやわらかくなり、流れはじめ、タラリタラリと下りはじめると観ずるがよい。
実際に酥をのせるわけではなく、鴨の卵くらいの大きさにした酥のようなもの、実際は万病を治す神の薬のカタマリが、頭のうえに載っているとイメージします。
このように「観想する(明確なイメージをする)」というのは瞑想法によくあるやり方です。いかに具体的にイメージできるかが、効果につながるポイントになります。
そのためにはもちろん、雑念があってはなりません。観想することに集中し、明確なイメージを作り上げる。うまく行うには、私もよく言っている「集中」と「洞察」が必要になります。
その神薬の流滴は頭脳の隅々までしめらし、顬(こめかみ)をうるおし、浸々として、両肩、両腕手先まで流れめぐり、両乳、両胸をしずかにうるおしてながれ、胃、肺、心臓、腸、肝臓、肛門、その他あらゆる内臓諸器官をひたしうるおしてながれ、また脊骨、肋骨、尾骨をも潤し、油が溶けてしみわたるように、全身に溶けこんで、ゆるりゆるりと下へ下へと流れくだるのである。
神の薬はだんだんと溶けて、体の表面だけでなく脳や内臓や骨までしみわたっていくようにイメージします。
これはボディスキャンの瞑想法としても有効です。自分の体の中身については、なかなか明確にイメージできないことが多いでしょうけれども、練習することで、今の体全体の状態が明確にイメージできるようになっていきます。
ヨガをするときも、骨や内臓がどんなアラインメントになっているかをイメージできていると、より精度の高いアーサナを行うことができ、瞑想をするときも体を良い姿勢に保つために役立ちます。
このとき胸中にある苦悶、煩悩、しこり、塊も一緒に溶けて、流れくだることことがはっきりわかるのである。かくして、この霊妙なる仙人の神薬は溶けてくだり、身体のすべてを潤しながれ、両股をもしめらせ、足をつたい、足のうらにまで流れくだって、やむのである。
頭頂から始まった神薬の流れは、いろいろな病気や心のわだかまりまでをも溶かして、足の裏まで到達します。
何度もこの観法を行うことで、ガンコな病素も流れ落ちていきます。
大切なのは、もう一度いいますが「明確にイメージする」ことです。
ビジュアルだけでなく、香り、温かさなどもあわせてイメージします。
他の瞑想法との共通点
「意識の中心を、上から下まで流れ下らせていく」という瞑想法は、他の分野でもよく出てくるので、簡単に比較してみます。
ハタヨーガ(クンダリニーヨーガ)では、まず吸う息で骨盤底から頭頂へと流れをつくり、そこから吐く息で逆に上から下へとおろす、というような瞑想を行って、センターラインを浄化します。軟酥の法と似ていますが、体全体というよりも骨盤から上で、かつセンターラインだけに集中する意図が感じられます。
仙道や気功では、まさに「軟酥観」が行われることもありますし、ハタヨーガと同じように骨盤底→頭頂→骨盤底と意識をぐるりと流す「小周天」という観法も重要です。小周天の場合は、体の表面を伝って、上がるときは背中側、下がるときは腹側を通し、ぐるっとまわすイメージです。
チベット密教の「金剛薩埵(ヴァジュラサットヴァ)の瞑想」では、頭上に観想した金剛薩埵から甘露が降りてきて、頭の中に入り、体中へ伝わって、罪障などを溶かし出して黒い液体となり、下の方(地獄)へ垂れて落ちていくというイメージをしますが、これは軟酥の法に近いような気がします。
カバラーの生命の樹を使った瞑想でも、頭上のケテルから降りてきた光を足元のマルクトへと導くという過程に近いものを感じます。
それぞれの瞑想法には、同じ名前がついていても流派によって微妙な違いがあるようですが、同じような考え方で瞑想していた人々が世界中にいたことを考えると、それなりの効果があったものと思います。
とはいえ、テキトーにやっていたり、疑いながらやっていたり、効果だけを求めて行っていたりしたら、あまり良い結果にはならないでしょう。
「明確にイメージする」というのはいろいろな場面で役立つ能力なので、軟酥の法は良い練習にもなると思います。