ハタヨーガの重要な教典の中でもたくさんの技法が載っている、ゲーランダサンヒターを読んでいきます。
今回は、最後の第7章に示されているサマーディ・ヨーガについて紹介します。
下記引用部分は、特に記載のない限り「ヨーガ根本教典 (続) /佐保田鶴治」を出典とします。
この記事の目次
サマーディの位置づけ
ヨーガスートラのアシュターンガヨーガ(8支則)でも最終段階として示されているサマーディ。ゲーランダサンヒターの示すヨーガでもそのゴールとして最終章に示されています。
ヨーガスートラではサマーディにいくつかの段階を設けていましたが、ゲーランダサンヒターでは段階というよりもいくつかの種類が異なるサマーディを列挙しています。
参考:ヨーガスートラ解説 1.42-1.43 〜有尋三昧(サヴィタルカ・サマーディ)と無尋三昧(ニルヴィタルカ・サマーディ)〜
そして、それぞれのサマーディに対応する行法も示されています。
サマーディの種類と方法
7.5 サマーディに四種ある。ディアーナ、ナーダ、ラサ・アーナンダ、ラヤである。これらはそれぞれシァーンバヴィー・ムドラー、ケーチァリー・ムドラー、ブラーマリー・ムドラー、ヨーニ・ムドラーによって成就せられる。
7.6 第五にはバクティ・ヨーガがあり、さらに第六のサマーディとしてマノー・ムールッチャー(こころのこうこつ状態)がある。この第六のサマーディがラージァ・ヨーガ(王ヨーガ)なのである。以上の如くに、それぞれを確認せよ。
サマーディの種類と、それに至る行法が6通り示されています。
- (1)ディアーナ:シァーンバヴィー・ムドラー
- (2)ナーダ:ケーチァリー・ムドラー
- (3)ラサ・アーナンダ:ブラーマリー・ムドラー
- (4)ラヤ:ヨーニ・ムドラー
- (5)バクティ・ヨーガ:(バガヴァッド・ギーターなどによって示される信愛の道)
- (6)マノー・ムールッチャー(ラージャ・ヨーガ):ムールッチャー・クンバカ
これらを見ても、ムドラーがとても重要な行法であることが感じ取れます。これまで列挙されてきたムドラーは、すべての人が全種類を実践するというものではなく、自分に合ったものを実践して、その末に自分なりのサマーディに至ればよいということなのでしょう。
ここで特徴的なのが、ゲーランダサンヒターのヨーガにおける4つのサマーディに加えて、バクティヨーガとラージャヨーガのサマーディを列挙しているところです。
バクティヨーガはバガヴァッド・ギーターなどによって示される信愛のヨーガであり、多くの宗教・宗派の人々に好まれている道です。これは肉体的な行ではなく、神を信じ愛するという道(これも簡単ではありませんが)によって行われます。キリスト教もバクティヨーガのひとつの形であるとされることもあります。
こういった古典ヨーガを並べることで、ハタヨーガはそれらと同様な結果に至ることができるという価値も示しているのでしょう。
ただ、ラージャヨーガに至るための行法がムールッチャー・クンバカである、というのはなかなか独特なまとめ方です。「マノー mano」はmanas(意)の変化した形で、「心の」などの意味、ムールッチャーは「恍惚」「気絶」などの意味です。
ムールッチャー・クンバカは第5章で述べられていましたが、改めてみてみると、
5.83 気楽にクンバカをして、こころを眉間におく。すべての対象を捨てたならば、こころが恍惚となって、愉悦が生ずる。アートマン(真我、霊魂)にこころが結びつくことから必然に歓喜が生ずるのである。
やり方としてはとてもシンプルで、簡単に語られていますがとても難しいことを言っています。すべての対象を捨てるというところが、たしかにヨーガスートラの無種子三昧と同じものを描いているようにも思えます。実際にはとても難しいので、やはり具体的な道は師匠に教わるべしということでしょう。
サマーディに至るとどうなるか
7.19 地を行くもの、空を行くもの、およそ生きとし生けるものは樹木、灌木、つる草に至るまで、さらには海、山をも含めて世界全体を梵なりと知るべし。かつは、世界全体をアートマンのうちに見る。
7.20 アートマンは体内に住する意識であって、不二、永遠、最高である。身体から分離したるアートマンを知れば、人は貪欲を離れ、宿世の性向を離れる。
7.21 かような仕方によって、すべてのはからいを離れたサマーディが成るであろう。自己の身体、息子、娘などの親族、財宝等すべてのものに対して所有欲を抱かなくなり、三昧を発得するであろう。
このあたりは、まさにヴェーダーンタの不二一元論に基づいています。世界の全ては、自己の外にあるように見えていたけれども、そもそも身体は真の自己ではなく、真の自己は世界全体を包含しているということに気づき、宿世の性向(ヴァーサナー)を離れるといいます。
このヴァーサナーはヨーガスートラにも出てきましたが、行為によって生じて蓄積し、あとで結果として生じる力、といった意味で用いられます。「あとで」というのは現世に限らず、幾世も後まで持ち越されていき、そのままにしておいたら「なかったことにはならない」というものです。いわゆる「たまった(未発現の)カルマ」と同じものとして説明されることもあります。カルマがある限り、その結果として何度も生まれ変わってくるため解脱はできません。多くのヨーガの道は、このカルマを焼き尽くすことを目的としています。
用語辞典:ヴァーサナー vāsanā
用語辞典:カルマ karman
7.23 チァンダよ、以上汝に説いたサマーディは得難い、最高のものである。これを知るならば、この地上に再生することは無い。
最終節では、改めて「地上に再生することは無い」つまり解脱に至るということが説かれます。
肉体を使った行法が中心となっているハタヨーガですが、最終的な目的は「美しい肉体」とか「不老不死の肉体」などではなく解脱、つまり肉体を捨てて帰ってこないことを目指しているということです。そのとき、もちろん「自己の身体、息子、娘などの親族、財宝等すべてのもの」に対する執着はなくなっています。
ハタヨーガプラディーピカーにつづいて、ハタヨーガの重要教典であるゲーランダサンヒターを概説してきましたが、現代で「ハタヨガ」と呼ばれているものとどれだけ異なるものであったか、少しお分かりいただけたかと思います。
私はこういったすべてを理解したうえでハタヨーガを実践すべしと言っているわけでもなく、すべての人にヨガをすすめているわけでもありません。
ただ、ちょっとかじっただけで「ヨガはこういうもんだ」と分かったようなふりをしているのは、とてももったいないことです。深く掘り下げていけば、もっと自分に合った、身体と心の健康法なども見つかるかもしれません。
今後もヨガに限らず、参考になりそうなものを紹介していきます。
(前)ゲーランダサンヒター概説6.1-6.22 〜ディヤーナ・ヨーガ〜