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ヨーガスートラ解説 1.42-1.43 〜有尋三昧と無尋三昧〜

ヨーガスートラ解説 1.42-1.43 〜有尋三昧と無尋三昧〜

「言葉」という振動が起これば、すなわち心には波立ちが起こる

ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
どのように訳していくかなどは、下記の記事に書いてあります。
≫ヨーガスートラ解説 1.1-1.2

≫ヨーガスートラ解説記事一覧
≫ヨーガスートラ日本語訳

ヨーガスートラの概要については、下記の記事にまとめてあります。

≫ヨーガスートラとは

英訳出典:http://yogasutrastudy.info/

サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/

訳者の略称は下記の通りです。

[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda

Sutra 1.42 サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)

तत्र शब्दार्थज्ञानविकल्पैः संकीर्णा सवितर्का समापत्तिः॥४२॥
tatra śabdārtha-jñāna-vikalpaiḥ saṁkīrṇā savitarkā samāpattiḥ ॥42॥

(読み)タトラ シャブダールタ ンニャーナ ヴィカルパイヒ サヴィタルカー サマーパッティヒ

(訳)対象の「名前」「形態」「知」が混入した状態のサマーディを「サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)」と呼ぶ。

[SS]: The samadhi in which name, form and knowledge of them is mixed is called savitarka samadhi, or samadhi with deliberation.

[SS訳]: 対象の名前・形態・知が混入した状態のサマーディを「サヴィタルカ・サマーディ」または思慮を伴うサマーディと呼ぶ。

[SV]: Sound, meaning, and resulting knowledge, being mixed up, is (called Samadhi) with reasoning.

[SV訳]: 音・意味・結果として生じる知が混入した状態を、論理を伴うサマーディと呼ぶ。

Sutra 1.43 ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)

स्मृतिपरिशुद्धौ स्वरूपशून्येवार्थमात्रनिर्भासा निर्वितर्का॥४३॥
smr̥ti-pariśuddhau svarūpa-śūnyeva-arthamātra-nirbhāsā nirvitarkā ॥43॥

(読み)スムルティ パリシュッダウ スヴァルーパ シューニェーヴァールタマートラ ニルバーサー ニルヴィタルカー

(訳)記憶が浄化され、集中対象の「名前」「形態」に関わらず「知」のみが輝く時、これがニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)である。

[SS]: When the memory is well purified, the knowledge of the object of concentration shines alone, devoid of the distinction of name and quality. This is nirvitarka samadhi, or samadhi without deliberation.

[SS訳]: 記憶が浄化され、集中対象に関する知が独り輝く時、名と属性の区別がなくなる。これが「ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)」または思慮を伴わないサマーディである。

[SV]: The Samadhi called without reasoning (comes) when the memory is purified, or devoid of qualities, expressing only the meaning (of the meditated object).

[SV訳]: 論理を伴わないサマーディと呼ばれる状態は、記憶が浄化されるか、または属性を伴わず瞑想対象の意味だけが表現されるときに訪れる。

解説・考察

「vitarkā(ヴィタルカ・尋)」という言葉は仏教でも用いられ、「論理」「思慮」などの意味に訳されます。日本語では「尋問」などで使われますが、なかなか普段使わないのでなじみがない言葉ですね。

たとえば「犬」をみたとき、私達日本人は、「これは『犬』である」と認識します。

そして茶色い犬であれば「これは『茶色い犬』である」と認識します。

そのとき、すでにその対象に対する認識は、多様に分かれてしまい、本質的な「知」を見失ってしまっているかもしれません。

「ものごとを本質的に観る」ことをできるようにするには、過去の記憶などによる先入観を排除する必要があります。

人はそれぞれの記憶(前世も含む?)をもとに、「犬」に対する様々な印象を想起してしまいます。

「かわいいもの」と認識するかもしれないし、犬に噛まれたことがあるひとは「嫌いなもの」と認識するかもしれません。

同様に形態に関しても、茶色が好きな人は「かわいいもの」、茶色が嫌いなひとは「かわいくないもの」となるかもしれません。

ただ、それらを別々に考えることができていれば、それがサヴィタルカ・サマーディです。

ざっくり言うなら「私は犬も茶色も嫌いだが、これは『嫌いなもの』ではなく、『犬』であり『茶色いもの』である」という状態かと思います。とても論理的(有尋)ですね。

無尋の状態とは、「犬」「茶色」「嫌い」のような言葉(論理)すらない状態です。

ヴィヴェーカーナンダ氏は「いぬ」という「音(振動)」すら起こらない状態と表現しています。振動が起こればすなわち心には波立ちが起こります。「いぬ」に関する何かしらの記憶が呼び起こされてしまいます。または、inuとdogは同じもののはずなのに別の振動というのはおかしいので、やはり「名前」が呼ばれた時点でその本質は隠されてしまっているわけです。

完全に波立ちがなく、客観的に・本質的に物事を観ることができる(本質的な知が輝く)状態が、ニルヴィタルカ・サマーディということかと思います。

まずは五感で見たり感じたりすることのできる「粗大な対象」に関して、本質的に観られるようになりました。

このあと、より「微細な」対象へと進んでいきます。

≫ヨーガスートラ解説 1.44-1.45
≪ヨーガスートラ解説 1.40-1.41

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