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第1章 サマーディ・パダ 三昧部門
では、「ヨーガ」について解説しよう。[1.1]
ヨーガとは、心の波立ちを止めることである。[1.2]
その時、観る者(真我・魂)は心にその本来の姿を映し出す。[1.3]
それ以外の時、観る者は、心の波立ちに応じて歪んだ姿で認識される。[1.4]
心の作用には5つの種類があり、それらの中には苦(煩悩)を伴うものと、伴わないものがある。[1.5]
その5つは、正知・誤解・言葉による錯覚・睡眠・記憶である。[1.6]
正知の根拠となるものは、直接的(現実的)な知覚・推論(演繹)・聖典の記述である。[1.7]
誤解は、その知識が正しい根拠に基づいていないときに起こる。[1.8]
実態に基づいていない空虚な言葉によって現れる心の作用は、言葉による錯覚である。[1.9]
「無に対する認識」に基づいた心の作用が、睡眠である。[1.10]
過去に経験して忘れていないものが、意識に戻ってくる心の作用を、記憶という。[1.11]
心の作用は、修習と離欲によって抑制される。[1.12]
これら2つのうち、絶え間ない努力をすることが「修習」である。[1.13]
修習は、長い間・休みなく・大いなる真剣さをもって取り組むことで、しっかりとした基盤をつくりあげる。[1.14]
見たり聞いたりした対象への渇望から開放された人の、克己の意識が「離欲」である。[1.15]
真我の認識によって、グナ(世界の構成物)への渇望からさえも解放される。[1.16]
サムプラジュニャータ・サマーディ(区別ある三昧・有想三昧)は論証性(尋)・反射(伺)・歓喜(楽)・純粋な自意識(我想)を伴う。[1.17]
揺るぎない信念を持って、心の作用を完全に抑止する実践を絶え間なく続けることによって、あとには「行(物事がそのようになる力)」だけが残る。これがもう一つのサマーディ(アサムプラジュニャータサマーディ・区別のない三昧・無想三昧)である。[1.18]
肉体を脱して自然界と一体化した人々や、神々(神性を得た人間)は、再誕に至る。[1.19]
その他の人々(ヨーガ実践者)は、信念・強さ・洞察・三昧・叡智によって解脱に至る。[1.20]
強い熱意のある実践者には、サマーディは非常に早く訪れる。[1.21]
成就に必要な時間は、実践が穏やかであるか・中位であるか・最上であるかによって大いに異なる。[1.22]
またはイーシュヴァラ(宇宙意識)への完全な献身によって、サマーディは成る。[1.23]
イーシュヴァラとは、苦悩・行為・行為の結果・欲望からも影響を受けない、至上の魂である。[1.24]
イーシュヴァラには、全知の種が備わっている。[1.25]
イーシュヴァラは古代の師にとっても師であり、時に依存しない。[1.26]
イーシュヴァラを示す言葉は「オーム」である。[1.27]
その意味を熟考しながら「オーム」を繰り返し唱えることが、サマーディへの道である。[1.28]
この実践によって、全ての障害が消え、同時に内面の自我に関する知が湧き上がる。[1.29]
病気・無気力・疑念・不注意・怠惰・誤った認識・安定した心境に到達できない状態・得られた心境から滑落すること、これらの心の散動がその障害である。[1.30]
心の散動に伴って、苦痛・失望・体の震え・呼吸の乱れが起こる。[1.31]
一つの対象に集中することが、これらの障害と付随物を防ぐ方法である。[1.32]
慈・悲・喜・捨(他人の幸福を慈しみ、不幸に同情し、有徳の人物と関わることを喜び、不徳の人物とは関わらないこと)の習慣を養うことは、心を本来の平静な状態に保つ。[1.33]
または、心の平静はコントロールされた呼気と保息によって保たれる。[1.34]
または、微細な対象への感覚に集中することが心の安定をもたらす。[1.35]
または、永遠に輝く至上な内なる光に集中することによって。[1.36]
または、知覚できる対象への執着から完全に自由な心に集中することによって。[1.37]
または、神々しい夢や深い眠りにおける経験に対して集中することによって。[1.38]
または、どんなものでも、自分を高めてくれるものを選んで瞑想することによって。[1.39]
瞑想によって、根本的な原子から最も巨大なものまで次第に解明されていく。[1.40]
透明な水晶が近くに置かれたものの姿や色を自然に映し出すように、ヨーギーの心はその働きを完全に弱めることで、清澄で均衡した状態となり、知る者・知られるもの・知の間の境界がなくなる。この瞑想の最高点がサマーディ(三昧)である。[1.41]
対象の「名前」「形態」「知」が混入した状態のサマーディを「サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)」と呼ぶ。[1.42]
記憶が浄化され、集中対象の「名前」「形態」に関わらず「知」のみが輝く時、これがニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)である。[1.43]
同様にして、微細な対象に対して行われるサヴィチャーラ・サマーディ(反射を伴う三昧・有伺三昧)およびニルヴィチャーラ・サマーディ(反射を伴わない三昧・無伺三昧)は説明される。[1.44]
微細な対象は、非顕現の状態(名称・形態・想念もない、自然の完全な平衡状態)へと終着する。[1.45]
これらのサマーディはサビージャ・サマーディ(有種子三昧)、心の波立ちや束縛へと戻る可能性を持つ。[1.46]
ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)が純粋になれば、至高の真我が輝く。[1.47]
これがリタムバラー・プラジュニャー、絶対的な真理を得た状態である。[1.48]
この特別な真理は、聞いたり・聖典から学んだり・推量したりして得られる知識とは完全に異なる。[1.49]
このサマーディによって生じる行は、他の全ての行を消し去る。[1.50]
この行すらも消え去った時、全ての行が消える。これがニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)である。[1.51]
第2章 サーダナ・パダ 実修部門
苦行を浄化の助けとして受け入れること(タパス)・霊的な書物を研究し自己研鑽すること(スヴァーディヤーヤ)・宇宙意識に身を委ねること(イーシュヴァラ・プラニダーナ)が、「クリヤーヨーガ(実践のヨーガ)」の内容である。[2.1]
これらは煩悩を最小化し、サマーディを達成する助けとなる。[2.2]
無知・我想(エゴ)・執着・嫌悪・生命欲が、5つの障害(煩悩)である。[2.3]
無知は、それらが休止状態・微弱な状態・妨害されている状態・持続している状態であるかに関わらず、後に述べられた他の煩悩の田地となる。[2.4]
無知とは、永遠でないものを永遠であると認識し、不純なものを純粋と認識し、苦を楽と認識し、真我でないものを真我であると認識することである。[2.5]
我想(エゴ)とは、「観る者(真我・魂)」と「観るための道具(体・心)」の同一視である。[2.6]
執着は、快楽の上に住まう。[2.7]
嫌悪は、苦痛の上に住まう。[2.8]
肉体的な生命に依存すること(生命欲)は、自身の(過去の経験による)潜在的な意識に従って起こり、これは賢者すらも支配する。[2.9]
これらの煩悩が潜在的な状態のときは、根因に回帰させることで破壊することができる。[2.10]
これらの煩悩が心の作用として現れているときは、瞑想によって破壊することができる。[2.11]
カルマ(行為と結果)の子宮の根はこれらの煩悩の中にあり、カルマは見える生(現世)や見えざる生(未来)の経験をもたらす。[2.12]
その根が存在する限り、行為の結果もまた起こり、様々な生類としての再生があり、それらの生には寿命と経験がある。[2.13]
カルマは、善業によって楽を、悪業によって苦を、結果としてもたらす。[2.14]
得たものを失う不安や恐怖・結果として心に残り新たな欲を生み出す印象(サンスカーラ)・心を左右する3つのグナの持続的な不均衡を鑑みるに、識別ある人にとっては、全てが苦であることは明らかである。[2.15]
未来の苦は、避けることができる。[2.16]
この避けられる苦の原因は、観るもの(プルシャ・真我)と観られるもの(プラクリティ・自然)の結合である。[2.17]
観られるもの(プラクリティ・自然界)は、グナ(照明・活動・惰性=サットヴァ・ラジャス・タマス)によって成り立つ、元素や感覚器官で構成される自然界であり、その目的は観るもの(プルシャ・真我・魂)に経験と解脱の両方を与えることである。[2.18]
グナの段階は、顕現した状態・非顕現の状態・定義された状態・定義できない状態がある。[2.19]
観るものは観るための力そのものであり、純粋だが、それは心を通して観られる(心が波立っていれば、色付けられた状態で現れる)。[2.20]
観られるものは、観るものの目的のためだけに存在する。[2.21]
観られるものは、解脱を達成したものにとっては破壊されているが、他のものにとっては依然として存在し、共有されている。[2.22]
所有するもの(プルシャ・真我・魂)と所有されるもの(プラクリティ・自然界)の結合が、双方の本来の状態と力に関する認識を引き起こす。[2.23]
その結合の原因となるのは、無知である。[2.24]
無知がなくなれば、もはやこのような結合は起こらない。これが観るもの(プルシャ)の独立(独存)である。[2.25]
絶え間ない識別が、無知を破壊する方法である。[2.26]
識別知を得たものの最高位の知は、7層に分かれる。(識別知を得たものは、1:これ以上さらに何かを知ろうとする欲求、2:何かを遠ざけようとする欲求、3:新しいものを得ようとする欲求、4:何かしたいという欲求、5:悲しみ、6:恐怖、7:妄想、の7つが終息するのを経験する。)[2.27]
8支則のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)を実践することで、不純は次第に遠ざかり、知の夜明けが訪れ、識別知が導き出される。[2.28]
8支則のヨーガとは以下の項目で成り立つ。1:ヤマ(禁戒)、2:ニヤマ(勧戒)、3:アーサナ(姿勢)、4:プラーナーヤーマ(呼吸制御)、5:プラティヤーハーラ(感覚抑止)、6:ダーラナー(集中)、7:ディヤーナ(瞑想)、8:サマーディ(三昧、合一、超意識状態)[2.29]
ヤマ(禁戒)は非暴力・誠実・不盗・自制・不貪によって成り立つ。[2.30]
これらの偉大な誓約は普遍であり、階級・場所・時間・環境に限定されるものではない。[2.31]
ニヤマ(勧戒)は、清浄・知足・熱意・自己研鑽・神への祈念(帰依)によって成り立つ。[2.32]
否定的な思考によって心が波立つときは、反対の(肯定的な)思考を用いて打ち消す。これがプラティパクシャ・バーヴァナである。[2.33]
暴力などのような否定的な行為をもたらす思考が生まれたとき、あるいは他者のそれを認めただけのときであっても、欲望・怒り・迷妄などいかなる原因によって引き起こされたものでも、穏やか・中位・激しいなどいかなる状態であっても、それらは無知によって生まれ、無知がある限り終わらない苦痛をもたらす。それらによってどのようなこと(反作用)が起こるのかを熟考することもまた、プラティパクシャ・バーヴァナである。[2.34]
アヒンサー(非暴力)に徹した者のそばでは、全ての敵意が止む。[2.35]
サティヤ(誠実)に徹した者には、行為に対して自然な結果が従う。[2.36]
アステーヤ(不盗)に徹した者には、全ての富が集まる。[2.37]
ブラフマチャリヤ(自制)に徹することで、活力が得られる。[2.38]
アパリグラハ(不貪)に徹したとき、自分がどのように・なぜ生まれたのか(物事の因果関係)という根本的な知を得る。[2.39]
シャウチャー(内的・外的な清浄)に徹することで、自身の体に対してすら嫌悪感が生じ、他者の体と交わることへの興味もなくなる。[2.40]
さらに、サットヴァの純粋性・心の快活さ・集中力・感覚の制御・自己実現への適性を得る。[2.41]
サントーシャ(知足)によって、至上の幸福がもたらされる。[2.42]
タパス(苦行・熱意)によって、体と感覚の不純が破壊され、超自然的な力が得られる。[2.43]
スヴァーディヤーヤ(自己研鑽・聖典の研究・読誦)をすることで、望んだ神霊との交わりが訪れる。[2.44]
イーシュヴァラプラニダーナ(宇宙意識への完全な帰依)によって、サマーディは達成される。[2.45]
アーサナ(坐法)は、安定していて快適な姿勢である。[2.46]
努力なしに自然な状態で姿勢をとれるようになり、永遠なるものに瞑想することで、アーサナに熟達することができる。[2.47]
アーサナに熟達した者は、二元性によって思考を妨げられることがなくなる。[2.48]
安定した姿勢が得られたとき、吸気と呼気の動きが制御される。これがプラーナーヤーマ(調気・呼吸法)である。[2.49]
その働きは外的・内的・静止のいずれかの状態をとる。これらは空間・時間・数において規則的に行われ、長短それぞれの方法がある。[2.50]
内的および外的な対象に集中しているときにおこる、第四の型をとるプラーナーヤーマ(ケーヴァラ・クンバカ:自然な止息)がある。[2.51]
その結果、心の内面にある光を覆っていたベールが破壊される。[2.52]
そして心はダーラナー(集中)への適性を得る。[2.53]
感覚器官が外的な対象から離れ、心の本来の状態を映し出すとき、これがプラティヤーハーラ(制感・感覚抑止)である。[2.54]
これによって、感覚器官の無上な統御が成る。[2.55]
第3章 ヴィブーティ・パダ 成就部門
ダーラナー(集中)とは、心を特定の対象に留め置くことである。[3.1]
ディヤーナ(瞑想・禅定・静慮)とは、集中対象への絶え間ない認識の流れである。[3.2]
サマーディ(三昧)とは、対象が全ての形態を失ったかのようになり、その意味(本質)だけが映し出される瞑想状態である。[3.3]
これらの3つ(ダーラナー・ディヤーナ・サマーディ)をひとつの対象に対して行うことを、サンヤマ(綜制)と呼ぶ。[3.4]
サンヤマに熟達することで、知の光が訪れる。[3.5]
サンヤマの実践は、段階を経て達成される。[3.6]
これら3支(ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ)は前の5支よりもより内的である。[3.7]
これら3支といえども、無種子三昧よりは外的である。[3.8]
湧き上がってくるサンスカーラ(物事がそのようになる力)は、それに代わる心の作用を生み出すことによる抑止的な努力によって消滅する。このような新たな心の流れが、ニローダ・パリナーマ(止滅転変)である。[3.9]
ニローダ・パリナーマ(止滅転変)の流れは、習慣によって安定したものになる。[3.10]
心の散動が収まり、一点集中が成るとき、サマーディ・パリナーマ(三昧転変・三昧への進展)は訪れる。[3.11]
そしてまた、次第に消え去る過去の想念と今湧き上がる想念が同一なとき、エーカーグラタ・パリナーマ(専念転変・一点集中)が在る。[3.12]
これによって、微細または粗大な対象および感覚器官における、形・時間・状態の3つの転変が説明される。[3.13]
潜在・生起・非顕現の状態を経ていくのは原質(プラクリティ・自然界の構成物)である。[3.14]
これらの変化の連続が、様々な転変の原因である。[3.15]
転変の3段階にサンヤマ(綜制)を行うことによって、過去と未来の知が得られる。[3.16]
通常は混同されている言葉(音)・意味・その背後にある知に対してサンヤマを行うことで、全ての生物が発する言葉(音)に関する本質的な知が得られる。[3.17]
サンスカーラ(物事がそのようになる力)を直接的に知覚することによって、過去世に関する知が得られる。[3.18]
他者が発するアイデアに対してサンヤマを行うことによって、その者の想念に関する知が得られる。[3.19]
しかしここで得られる知には、その者の心の中で想念を支えているもの(動機づけとなる背景の思考など)は含まれず、それはこのサンヤマの対象とはならない。[3.20]
体の形態・性質にサンヤマを行うことによって、形態を知覚する力が妨害され、目の中に像が投影される力が分離されてヨーギの体は見えなくなる。[3.21]
同様にして、音(触・味・臭など)の消失も説明される。[3.22](※)
カルマ(業・行為と結果)には、速やかに現れるものと、ゆっくり現れるものの2種類がある。それらにサンヤマを行うことで、あるいは死の前兆に対してサンヤマを行うことで、死期を知ることができる。[3.23(3.22)]
友情・慈愛などに対してサンヤマを行うことによって、ヨーギはそれらの特性において秀でた能力を得る。[3.24(3.23)]
象などの強力な動物に対してサンヤマを行うことによって、ヨーギはその動物たちの強さを得る。[3.25(3.24)]
内なる光にサンヤマを行うことによって、微細な・隠された・遠く離れたものに関する知が得られる。[3.26(3.25)]
太陽にサンヤマを行うことによって、太陽系すべてに関する知が得られる。[3.27(3.26)]
月にサンヤマを行うことによって、星の配置に関する知が得られる。[3.28(3.27)]
北極星にサンヤマを行うことによって、星の動きに関する知が得られる。[3.29(3.28)]
臍のチャクラにサンヤマを行うことによって、体の構造に関する知が得られる。[3.30(3.29)]
喉のくぼみにサンヤマを行うことによって、空腹と喉の渇きを止めることができる。[3.31(3.30)]
クールマナーディ(鎖骨間の奥にある、微小な亀の形をした管)にサンヤマを行うことによって、瞑想姿勢における不動が得られる。[3.32(3.31)]
頭頂の光(サハスラーラチャクラ)にサンヤマを行うことによって、達人(シッダ)たちの姿が見える。[3.33(3.32)]
または、プラティバー(純粋な生活を通して自然に起こる悟り)によって(サンヤマを行うことなく)全てを知ることができる。[3.34(3.33)]
心臓にサンヤマを行うことによって、心の働きに関する知が得られる。[3.35(3.34)]
心とプルシャ(真我)は完全に異なっていて、これらを混同することは全ての経験(苦難や快楽)の原因となる。これらの違いに対してサンヤマを行うことによって、プルシャに関する知が得られる。[3.36(3.35)]
このプラティバー(真我に関する、輝ける知)によって超自然的な聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が得られる。[3.37(3.36)]
これら(超自然的な感覚)はサマーディへの道においては障害となるが、世俗的な追求においてはシッディ(霊能・成就)となる。[3.38(3.37)]
心を体に縛り付けている原因を緩めることによって、そして心の作用が働く過程に関する知によって、他者の体に入り込むことができる。[3.39(3.38)]
ウダーナ気(上向きの生気)を支配することによって、ヨーギは水・沼地・棘の上に浮くことができるようになる。[3.40(3.39)]
サマーナ気(均一化を司る生気)を支配することによって、体は輝きに包まれる。[3.41(3.40)]
耳とエーテル(空間)との間の関係にサンヤマを行うことによって、超自然的な聴覚が得られる。[3.42(3.41)]
体とエーテル(空間)の間の関係にサンヤマを行うことによって、綿のような軽さが得られ、エーテルの中を自由に移動することができるようになる。[3.43(3.42)]
体の外にあって認識されていなかった思考の波にサンヤマを行うこと(マハーヴィデハ・偉大なる脱身)によって、真我の光を覆っていたベールが破壊される。[3.44(3.43)]
自然界を構成する要素(五大元素:土・水・火・風・空の順番に粗大→微細となっていく)の本質・相互関係・目的に対してサンヤマを行うことによって、それらに対する支配が得られる。[3.45(3.44)]
それによって、アニマ(体を小さくする力)などその他のシッディ、体の完全化、体の機能が自然界の要素によって影響を受けなくなる能力が得られる。[3.46(3.45)]
体の完全化は、美・気品・強さ・揺るぎない強健によって成される。[3.47(3.46)]
感覚器官および自然界の本質(エゴと感覚器官の目的の間の相互関係)にサンヤマを行うことによって、それらに対する支配が得られる。[3.48(3.47)]
それによって、迅速な心、感覚器官を必要としない体、自然界の根因(プラクリティ)への支配を得る。[3.49(3.48)]
サットヴァ(「心」を含む、自然界)と真我との違いを識別することによって、すべての状態・形態における存在への支配が「全知」として得られる。[3.50(3.49)]
これら(すべてのシッディ・超能力)に対してすら無執着であることによって、束縛の種は破壊され、カイヴァリヤ(独存)の状態が訪れる。[3.51(3.50)]
ヨーギは、神々からの誘いを受けたとしても、これを受容することなく、またそれによって慢心の笑みすら浮かべるべきではない。再び望まざる状態に引き戻される可能性があるからである。[3.52(3.51)]
時間の中の一片(刹那)にサンヤマを行い、それを繰り返すことによって、識別知が得られる。[3.53(3.52)]
これによって、種・特徴・位置などが酷似していて識別できなかったものが、識別できるようになる。[3.54(3.53)]
この識別知は、全ての状態にある全ての対象を同時に理解する、解脱をもたらす直観知である。[3.55(3.54)]
穏やかな心が真我に等しい純粋性を得た時、カイヴァリヤ(独存)が訪れる。[3.56(3.55)]
第4章 カイヴァリヤ・パダ 絶対部門
シッディ(超能力)は、前世における行・薬草・マントラ・タパス(熱意・苦行)・サマーディによって得られる(ただしサマーディで得られるもの以外は不自然である)。[4.1]
異なる生物として生まれ変わることは、プラクリティ(自然界を構成する要素)の流入によってもたらされる。[4.2]
善行その他の行いは、自然界の流れを直接的に生み出すものではない。しかしそれらは自然界の進化を妨げる障害を破壊するものであり、農夫が水路を塞いでいる障害物を取り除くかのように、その本来の流れを導くのみである。[4.3]
エゴのみが、(本来備わっている以外の)心の働きを生み出す。[4.4]
生み出された心の働きは様々に異なるが、本来備わっている心は、それら全ての心に対する命令者となる。[4.5]
瞑想によって生まれた心のみが、人為的に生み出された様々な心とは異なり、カルマの印象(力)から逃れている。[4.6]
ヨーギの行為は白(善)でも黒(悪)でもない。他者の行為は黒・白・グレーの3種類に分かれる。[4.7]
ヴァーサナー(行為によって蓄積する潜在的な力→後に煩悩を生み出す)によってもたらされる結果は、現在の生における欲に整合するときのみ、発現する。(その他のヴァーサナーは保留され、整合する生が訪れたときに発現する。)。[4.8]
ヴァーサナーが種・空間・時間によって隔てられていようとも連続性をもつのは、記憶とサンスカーラの間に同一性があるためである。[4.9]
生命欲が永遠であるため、サンスカーラもまた無始である。[4.10]
サンスカーラは原因・結果・基盤・支柱(対象)と共にあり、これら4つの消失によってサンスカーラもまた消える。[4.11]
「過去」や「未来」は、現在世界において、性質の状態の違いによって顕現した事象の内に存在する。(ある事象の性質が変化していくのを認識することで、過ぎ去った性質は過去として存在し、未だ顕現していない性質は未来として存在することを認識する)[4.12]
顕現・非顕現の状態に関わらず、これらの性質はグナ(自然界の構成要素)に基づいている。[4.13]
事物の本質(同一性)は、グナの転変の一貫性に基づいている。[4.14]
各々の心は異なるため、同じ対象への認識も様々に異なる。[4.15]
事物は、ある一つの心に依存して存在している(心が世界を創り出している)とは言えない。もし心が対象を認識できなかったら、その対象は存在しないことになってしまう。[4.16]
ある対象が認識されるかされないかは、心がそれによって色付けされるかされないかによって決まる。[4.17]
心の支配者であるプルシャ(真我)は不変であり、心の状態は常に知られている。[4.18]
心は単独で輝くものではない。それはプルシャによって知覚される客体であるからである。[4.19]
心は主(真我)・客(外界の対象)を同時に知覚することはできない(このことからも、心が単独で輝くものではないことが示される)。[4.20]
もし心が他の心からの認識によって存在すると仮定すると、無限の心が必要となり、結果として記憶の混乱が生じる。[4.21]
プルシャの意識は不変である。その像を映し出すことによって、心は真我に気づく。[4.22]
心は観るものと観られるものの両方に染められたとき、全てを理解する。[4.23]
数えきれない欲望を持ちながらも、心は他者(プルシャ)のために存在し、心は常にプルシャと共に活動する。[4.24]
識別を得た者は、心をアートマンであると誤解することが永遠に止んでいる。[4.25]
そして心は識別へと向かい、カイヴァリヤ(独存)に引き寄せられていく。[4.26]
その間にも、それを妨げる思考が過去の印象によって湧き上がってくる。[4.27]
これらの障害は、これまでに説明された煩悩に対処する方法を用いて、取り除くことができる。[4.28]
完全な識別によって、その者は最上級の結果に対しても無関心となり、揺るがない識別知を持ち続ける。これをダルマメーガ・サマーディ(法雲三昧)と呼ぶ。(「ダルマ」は、美徳・正義・法・義務・道徳・信心・ご利益・天命、の意味を持つ)[4.29]
このサマーディによって、全ての苦痛とカルマが終結する。[4.30]
覆いと不純を取り除かれた知は無限であり、さらに知られるべきものはほとんどない。[4.31]
そのときグナは目的を果たしたため、その転変の流れを終える。[4.32]
時の流れによる変化は刹那の間(現在)に存在し、その連続性は、転変の終わりにおいて認識される。[4.33]
かくして、無上なる独存が成り、グナはもはやプルシャに仕える目的を持たず、元の状態(変化が止まった・非顕現の状態)へと還入される。あるいは、純粋な意識の力が、その本来の姿に帰着するとも言える。[4.34]
※3.22節に関しては、訳者によっては抜けているため、このあとの節番号がひとつずつズレている訳本もあります。この節が後世に付け加えられたものとされているのか、詳細は分かっていないようです。そのため、ヨーガスートラは全体で195節とする場合と、196節とする場合があります。ここでは3.22節は存在するとしてカウントした節番号をメインに使い、存在しないとした場合の節番号をカッコで示すことにします。
ヨーガスートラとは
4〜5世紀頃にパタンジャリによって編纂されたと言われる195(または196)節の詩篇。
現代ヨガでも用いられるアシュターンガヨーガ(8支則のヨーガ)や、瞑想のやり方など、「心」をうまくコントロールするための方法がまとめられている。
ヨーガスートラで扱っているヨーガは「古典ヨーガ」あるいは「ラージャヨーガ(王のヨーガ)」と名付けられている。
≫ヨーガスートラとは 〜現代ヨガの重要教典・心の扱い方・瞑想の教科書〜
≫ヨーガスートラ(ラージャヨーガ・アシュターンガヨーガ)における、サマーディの段階