ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 2.46 アーサナ(坐法・姿勢)とはどうあるべきか
स्थिरसुखमासनम्॥४६॥
sthira-sukham-āsanam ॥46॥
(読み)スティラ スッカン アーサナン
(訳)アーサナ(坐法)は、安定していて快適な姿勢である。
[SS]: Asana is a steady, comfortable posture.
[SS訳]: アーサナは安定していて快適な姿勢である。
[SV]: Posture is that which is firm and pleasant.
[SV訳]: 姿勢は安定していて快適である。
Sutra 2.47 アーサナに熟達するには
प्रयत्नशैथिल्यानन्त्यसमापत्तिभ्याम्॥४७॥
prayatna-śaithilya-ananta-samāpatti-bhyām ॥47॥
(読み)プラヤトナ シャイティリャーナンタ サマーパッティ ビヤーン
(訳)努力なしに自然な状態で姿勢をとれるようになり、永遠なるものに瞑想することで、アーサナに熟達することができる。
[SS]: By lessening the natural tendency for restlessness and by meditating on the infinite, posture is mastered.
[SS訳]: 自然な癖である「落ち着きのなさ」を減らしていき、永遠なるものに瞑想することで、姿勢に熟達する。
[SV]: By slight effort and meditating on the unlimited (posture becomes firm and pleasant).
[SV訳]: わずかな努力と、無限なるものに瞑想することで、姿勢は安定して快適なものになる。
Sutra 2.48 アーサナに熟達したらどうなるか
ततो द्वन्द्वानभिघातः॥४८॥
tato dvaṅdva-an-abhighātaḥ ॥48॥
(読み)タトー ドヴァンドヴァーナビガータハ
(訳)アーサナに熟達した者は、二元性によって思考を妨げられることがなくなる。
[SS]: Thereafter, one is undisturbed by the dualities.
[SS訳]: アーサナに熟達した者は、二元性によって思考を妨げられることがなくなる。
[SV]: Seat being conquered, the dualities do not obstruct.
[SV訳]: 安定した坐が得られたとき、二元性に妨害されることがなくなる。
解説・考察
ここでようやく現代のヨガポーズの意味にあたる「アーサナ」の説明が出てきます。
しかし具体的なポーズのとりかたなどは書かれておらず、ただ「快適で安定したものである」とだけ説明されています。
当時と現代の「アーサナ」の違い
「アーサナ」は現代では姿勢・体位・ポーズなど様々な訳しかたで扱われますが、このころは主に「坐法」を意味していたと思われます。
ヨーガスートラにおけるヨーガは、瞑想を深めて三昧に至り、心を止滅するのがゴールであるため、体も安定した状態で長時間止めておく技術が必要とされました。
長時間止まっておくために「快適で安定」である必要があったのですが、現代のヨガポーズの全てにこれを当てはめるべきかどうかは、考え方次第かと思います。明らかに現代のヨガポーズの多くと、この当時の「アーサナ」が示す「坐法」は異なるものを扱っていると思われるからです。
アーサナの深め方
2.47節で示されるアーサナの深め方は、現代ヨガにあてはめて考えてみても良いかもしれません。
「prayatna 努力」を「śaithilya 減らす・穏やかにする」、必死にアーサナを行おうとしていると、長続きしませんし怪我をする可能性も高まります。
そのアーサナの中で自然に佇めるようにする、そして永遠に存在するものに一体化する。もし2秒しか続けられないような姿勢では、それはアーサナとは言えないということですね。
二元性からの解放
2.48節で示されている、「二元性に惑わされることがなくなる」という言葉は、いろいろな捉え方ができそうです。
シンプルに捉えるとしたら、世の中を「白か黒か」の二元論で考えることなく、バランスをとって中道を行くべし、というヨーガの基本的な思想に結びつけることができます。
現代ヨガのポーズで考えるならば、男性が得意なパワー系のポーズもあれば、女性が得意な柔軟系のポーズもありますが、どちらもバランスよくできるようになっていきましょうとつなげることもできます。
また、アーサナは「できたから良い」「できないから悪い」というものでもなく、さらに言えば「できた」「できていない」と判断するべきでない場合もあります。今の自分なりの形でアーサナを続けて行っていくことで少しずつ深まっていくものなので、いつまでも深めることができるため「できた」は永遠に訪れないと考えることもできます。
「ポーズができないからやらない」「かたいからやらない」などと二元性にとらわれてヨガをしない人は、もったいないですね。
二元性に関する考察
さらに深読みをするとしたら、バガヴァッドギーターが試みたように、他のヨーガ哲学や宗教を包含するような意図があったのかもしれません。
ヨーガにはいくつかの哲学系統があり、不二一元論に基づいているものと、二元論に基づいているものがあります。
ヨーガスートラはプルシャとプラクリティを定義していることから、二元論的多元論と呼ばれています。
それに対してヴェーダーンタに代表される不二一元論は、実在するものは一つ(ブラフマン)であり、現実世界として感覚で捉えられている全ては幻(マーヤー)であると定義します。
二元性に惑わされないようになるという言葉は、自らが用いている二元論もいずれは不要になるというようにも捉えられます。
最終的にはプルシャやプラクリティといった言葉も捨てて、どれが正しいのかという議論もやめて、ただただ姿勢を定めて永遠なるものに瞑想することで一つの同じ真理に至ることができるのだということを意図していたのかもしれません。(訳者たちはさらっと流しているので、私の深読みしすぎかもしれませんが)
≫ヨーガスートラ解説 2.49-2.53
≪ヨーガスートラ解説 2.40-2.45