バガヴァッドギーターを読んでいく上で、日本人がつまづきがちなポイントについて、日本の昔の状況と比較して考えてみます。
序盤の第2章において、同族との戦争がまさにはじまろうとする場面で、主人公のアルジュナは「戦いたくない」と苦悩しますが、御者のクリシュナは様々な話をしながら「貴方は戦うべきである」と諭します。
クリシュナは、インド哲学においては一般的によく用いられる「輪廻転生」などの話も持ち出しながら様々な理由を説いていきますが、日本人にとっては馴染みのない論理を元に話が進んでいくので、結局「人は肉体が死んでも魂は死なないので、殺しをしても良い」というところだけが強調されてしまったり、大きな誤解をしがちです。
私も最初に読んだときは、例の宗教も想起されてしまって読みづらいところでした。
バガヴァッドギーターを読む上で序盤につまづかないためには、時代背景や彼らのおかれた状況を理解しておく必要があります。
日本でも、鎌倉〜戦国時代などに武士と禅僧が深いかかわりを持っていたので、この状況と比較してみるとわかりやすいかもしれません。
禅とヨーガは元々ルーツは同じで、よく比較されますが、日本人にとっては生活や思想の深いところに禅の心がしみこんでいるため、同じことを言っていても、禅のアプローチのほうがスッと心に入ってくるということがあります。
鈴木大拙氏の著書に、とてもしっくりくる文があったので紹介します。
日本においては、禅は当初から武士の生活と密接な関係があった。もっともそれはけっして彼らの血なまぐさい職業を実行するように示唆したのではない。武士がなにかの理由で一たび禅に入った時は、禅は受動的に彼らを支持したのであった。
「受動的に」というのが個人的にはしっくり来ました。教えを押し付けるのではなく、自ら道を開いていくことを導くのが、禅やヨーガなのだと思います。
禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死を無差別的に取り扱うからである。
アルジュナは、カースト制におけるクシャトリア(王族・士族)、つまり武人として戦うことを義務付けられています。
武人として生まれ、そして様々な過程を経て(その過程において、戦争を避けるチャンスもあったが)戦争に至ってしまったまさにその場面において、自分の使命から逃げようとしているのはよろしくないと諭されているわけです。
この振り返らないということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。
禅は「不立文字」、言葉にしてしまった時点で真理からは離れてしまうので、ただただ体験して悟りなさいという教えです。
それに対してヨーガは、最終的な真理については言葉では語れず自ら「悟る」しかないとしていますが、そこまでの道のりを様々な方法(カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ハタ・ヨーガなど…)で説明しようとしてくれます。
≫ヨガの大分類(ジュニャーナ・バクティ・カルマ・ラージャ)〜体を動かすヨガ・それ以外のヨガ〜
バガヴァッドギーターの第2章は、哲学的に丁寧に説明してくれているが故に、日本人にとっては誤解を生みやすいのかもしれません。
「生と死を無差別に取り扱う」という「平等のヨーガ」の姿勢がまさにバガヴァッドギーター全体にも見られますが、輪廻転生がいきなり持ち出されてくるので、日本人にとってはちょっと受け入れがたい感じになってしまっています。
そういった難しいことはおいておいて、武士精神が深いところにしみついている日本人にとっては、道徳的に、「やるべきことをやりなさい」の一言でいいのかもしれません。
バガヴァッドギーターを読んだ人の感想としてよくあるのは、「結局同じことを、違う表現で何度も何度も説明しているだけじゃない?」というものです。
インド哲学の本は、まさにそんなつくりの本が多いと思います。インド人はたとえ話が大好きです。ただ、日本人はもっと簡単な表現によって、自分で気づくことができる素質があるのかもしれません。
実際、いろいろな宗教やヨーガの道も、バガヴァッドギーター自身も述べているように、表現を変えて「結局同じこと」を言っているのです。しっくりくる表現を自分で見つけられたなら、バガヴァッドギーターやヨーガスートラのような本を「有名だから読まなくては…」と思う必要もないのだと思います。
私がいろいろな本を読む理由は、むしろその「表現のバリエーション」を探しているというところにあります。
人によって、伝わりやすい表現は、様々ですからね。