「ありのままを受け入れましょう」
「ヨガは自己肯定です、ポーズができなくてもいいんです」
などと、ヨガのレッスンで言われたことのある方も多いかと思います。
「無理せず、怪我しないように自分のペースでやりましょう」というふうに捉えることもできますが、どうもモヤっとする人もいるのではないでしょうか。
「今の自分を変えたいからヨガをしにきたのに、今のままでいいの?」
「できなくてもいいなら、なんのためにヨガはあるの?」
このように捉えてしまったら、大きな矛盾を感じてしまいます。
言葉の捉え方は本当に人それぞれですが、混乱してしまわないように、ひとつの考え方を書いておこうと思います。
エクササイズとしての現代ヨガと、古典ヨーガの哲学を混同しない
そもそも、現代ヨガはエクササイズやスポーツとして行っている人が多数派のようです。
そこに古典ヨーガの哲学を無理やり当てはめようとするから混乱が生じます。
「アーサナをできるようになりたい」「美しい体になりたい」
これらはまさに現代ヨガの目的であるのに、古典ヨーガでは手放すべき「雑念」とされる場合もあります。
現代ヨガと古典ヨーガは、ルーツの一部は共通しているとはいっても、先日の太陽礼拝の記事でも書いたように、現代ヨガは体の美化を目的とした流れから新たに生まれた部分も多いようです。
もはや現代ヨガと古典ヨーガは別物として考えたほうが、混乱も少なくなると思います。
エクササイズやスポーツとしてヨガをやるなら、「アーサナができない自分」「美しくない自分」を変えたいという熱意を持って行うのも良いのだと思います。
古典ヨーガの哲学を元にして行うなら、アーサナは雑念を捨てるために行い、ありのままの自分と向き合うようにするというのが正しいのでしょう。
とはいえ古典ヨーガも、「自分を変えたい」と考えた人たちが実践していたはず。これは少なからず、「ありのまま」ではなく、自分を否定する必要があるのでは?
「変わりたい」から始まる
自分を変えたいとき、ただ坐禅をするというやり方が合っている人もいれば、キラキラした流行りのメソッドが好きな人もいるでしょう。
どんな方法を選ぶにしても、「変わりたい」ということは、少なからず今の自分を状態を否定することから始まるのだと思います。
そして本当に変わることが出来る人は、今の状態に執着せず、習慣や仕事や所有物などをかなりダイナミックに手放していることが多いと思います。
ここからは「否定」というネガティブな言葉よりも、「手放す」という意味でよく古典ヨーガに出てくる「放擲(ほうてき)」という言葉を使ってみようと思います。
本当のところ、放擲されるべき雑念なども、経験を積むために必要なものであり、「否定」されるべきものではないのでしょうから。
≫ヨーガスートラ解説 2.18-2.22 自然界は魂に経験を与えるために存在する
雑念に惑わされながらも経験を積み、雑念を放擲していくことで、本来あるべき自分に近づいていくというのが古典ヨーガのアプローチです。
さて、放擲するということはなかなか勇気の要ることです。放擲するにしても、どこまで放擲できるのか。
たとえば「甘いものを食べすぎてしまう」といったような表面的で明らかに悪そうな癖は放擲できるかもしれませんが、価値観や仕事や地位などといったところは手放せるでしょうか。
そもそも全部手放したら、「自己」がなくなってしまうのではないか?
「自己」のおきどころがそもそも違う
ヨーガでは、「体」も「心」も「自己」ではないと定義されます。
仏教ではさらに「自己」というものはそもそも存在しない(無我)と定義されます。
それぞれの教えの中でもさらに細かい考え方で分かれていますが、どちらにしても、「体」や「心」は、変化し続ける(無常な)自然界の一部であると定義されています。
≫ヨーガスートラ解説 2.4-2.9 〜「無知」から生まれる諸煩悩〜
ヨーガの考え方でいうなら「自己」は「魂」のようなもので、それは不滅で、必要な智はすでに持っていて十分満たされていると定義されます。
そんな本来素晴らしいはずの自己を覆い隠してしまっているのは、「心」の働きから生じる多くの雑念であるといいます。
このあたりで「自己」のおきどころが違っていると、「ヨガは自己肯定か、自己否定か?」「変わるために今の自分を否定するとしても、どこまで否定できるのか?」といったような混乱が生じるわけです。
ヨーガの哲学によれば、我々が「自己」だと思ってしまって執着してしまっている「体」や「心」の悪い癖は全て手放すべきであって、覆い隠されている素晴らしい「自己」は肯定されるべきであるということになります。
ヨガも禅も、「◯◯する」のではなく「◯◯しない」という方向性の教え
手放すべき「体」や「心」の癖に気づき、それを徹底的に手放していくというのがヨガや禅の方向性です。
断捨離、シンプリシティ、といった日本人にもなじみのある考え方だと思います。
しかし、心を使って心自身をコントロールするのはなかなか難しいものです。
「考えないようにしよう」「心を落ち着けよう」というふうに考えれば考えるほど、雑念は重なっていきます。
なので、余計なことを考えないようにするために、決められた作法をただ実践するということに取り組むわけです。
「坐禅をすることに意味があるのだろうか?」などと考えるスキがなくなるように、ただただ行うということです。
宗教の儀式などはそのようなものが多いと思います。それ自体に意味があるのかということは重要ではなく、「決められたことをやる」それによって「余計なことをしないようにする」という意味があるのだと思います。
とはいえ、せっかくやるのだからそれなりに科学的にも効果があるとされていることをしたい!と思う人は、それなりにエクササイズ効果もあるヨーガを選ぶのが良いのでしょう。
もし現代ヨガとしてやるのなら、アーサナができるようになって、美しい体になることを目指すのも良いでしょう。しかし古典ヨーガの哲学を元に、雑念を捨てるためにアーサナをするのであれば、「アーサナができなくてくやしい」「他の人はできているのに…」といった雑念は手放していくようにしましょう。
放擲の末に肯定がある
癖や雑念も、経験を積むために必要なものであり、「否定」するのではなく「放擲」するべきもの。
本来の輝かしい自己が現れるまでに、今の癖だらけの心身に対しては何度も何度も気づきと放擲を繰り返すことになるかもしれません。
癖に気づくのは自分自身であって、人や本から教わることは全てヒントにすぎません。
ヨガのレッスンでアーサナを直されたりすると、ネガティブな気分になってしまうこともあるかもしれませんが、それは全て、癖に気づいて手放すためのヒントであると考えると、全てがポジティブに捉えられるようになります。
放擲を繰り返した末に、なにもなくなってしまうと思うと怖くなってしまいますが、そうではなく本来の純粋な自分は元々素晴らしいものであると信じて、勇気を持って悪い癖を手放し続けるのが良いと思います。