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ヨーガスートラ解説 4.18-4.24 〜心と真我の関係性〜

ヨーガスートラ解説 4.18-4.24 〜心と真我の関係性〜

心が波立たなくなると、真我と自然界両方の本質を映し出す

ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。

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≫ヨーガスートラ日本語訳

英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/

訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda

Sutra 4.18

सदा ज्ञाताश्चित्तवृत्तयस्तत्प्रभोः पुरुषस्यापरिणामित्वात्॥१८॥
sadājñātāḥ citta-vrttayaḥ tat-prabhoḥ puruṣasya-apariṇāmitvāt ॥18॥

(読み)サダーンニャーターハ チッタ ヴルッタヤハ タップラボーホ プルシャスヤーパリナーミトヴァート

(訳)心の支配者であるプルシャ(真我)は不変であり、心の状態は常に知られている。

[SS]: Due to His changelessness, changes in the mind-stuff are always known to the Purusha, who is its Lord.

[SS訳]: その不変性ゆえに、心の変化は、心の支配者たるプルシャ(真我)によって知られている。

[SV]: The states of the mind are always known because the lord of the mind is unchangeable.

[SV訳]: 心の支配者(真我)は不変であるので、心の状態は常に知られている。

Sutra 4.19

न तत्स्वाभासं दृश्यत्वात्॥१९॥
na tat-svābhāsaṁ dr̥śyatvāt ॥19॥

(読み)ナ タッスヴァーバーサン ドルシュヤトヴァート

(訳)心は単独で輝くものではない。それはプルシャによって知覚される客体であるからである。

[SS]: The mind-stuff is not self-luminous because it is an object of perception by the Purusha.

[SS訳]: 心は単独で輝くものではない。それはプルシャによって知覚される客体であるからである。

[SV]: Mind is not self-luminous, being an object.

[SV訳]: 心は単独で輝くものではなく、ひとつの客体である。

Sutra 4.20

एकसमये चोभयानवधारणम्॥२०॥
eka samaye c-obhaya-an-avadhāraṇam ॥20॥

(読み)エーカ サマイェー チョバヤーナヴァダーラナン

(訳)心は主(真我)・客(外界の対象)を同時に知覚することはできない(このことからも、心が単独で輝くものではないことが示される)。

[SS]: The mind-stuff cannot perceive both subject and object simultaneously [which proves it is not self-luminous].

[SS訳]: 心は主・客を同時に知覚することはできない(このことからも、心が単独で輝くものではないことが示される)。

[SV]: From its being unable to cognize two things at the same time.

[SV訳]: 心が2つの対象を同時に知覚できないことから(前節の内容が)示される。

Sutra 4.21

चित्तान्तरदृश्ये बुद्धिबुद्धेरतिप्रसङ्गः स्मृतिसंकरश्च॥२१॥
cittāntara dr̥śye buddhi-buddheḥ atiprasaṅgaḥ smr̥ti-saṁkaraś-ca ॥21॥

(読み)チッターンタラ ドルシュイェ ブッディ ブッデーヘ アティプラサンガハ スムルティ サンカラシュチャ

(訳)もし心が他の心からの認識によって存在すると仮定すると、無限の心が必要となり、結果として記憶の混乱が生じる。

[SS]: If the perception of one mind by another mind be postulated, we would have to assume an endless number of them and the result would be confusion of memory.

[SS訳]:もし心が他の心によって認識されると仮定すると、無限の心が必要となり、結果として記憶の混乱が生じる。

[SV]: Another cognizing mind being assumed there will be no end to such assumptions and confusion of memory.

[SV訳]: 心が他の心によって認識されると仮定すると、その仮説には終わりがなく、記憶の混乱が生じる。

Sutra 4.22

चितेरप्रतिसंक्रमायास्तदाकारापत्तौ स्वबुद्धिसंवेदनम्॥२२॥
citer-aprati-saṁkramāyāḥ tad-ākāra-āpattau svabuddhi saṁ-vedanam ॥22॥

(読み)チテーラプラティ サンクラマーヤーハ タダーカーラーパッタウ スヴァブッディ サンヴェーダナン

(訳)プルシャの意識は不変である。その像を映し出すことによって、心は真我に気づく。

[SS]: The consciousness of the Purusha is unchangeable; by getting the reflection of it, the mind-stuff becomes conscious of the Self.

[SS訳]: プルシャの意識は不変である。その像を映し出すことによって、心は「自己」の意識を得る。

[SV]: The essence of knowledge (the Purusa) being un-changeable, when the mind takes its form, it becomes conscious.

[SV訳]: プルシャに関する知の要素は不変であり、心がその形を映し出すことによって、それ(真我)に気づく。

Sutra 4.23

द्रष्टृदृश्योपरक्तं चित्तं सर्वार्थम्॥२३॥
draṣṭr̥-dr̥śy-opa-raktaṁ cittaṁ sarva-artham ॥23॥

(読み)ドラシュトル ドルシュヨーパ ラクタン チッタン サルヴァールタン

(訳)心は観るものと観られるものの両方に染められたとき、全てを理解する。

[SS]: The mind-stuff, when colored by both Seer and seen, understands everything.

[SS訳]: 心は観るものと観られるものの両方に染められたとき、全てを理解する。

[SV]: Coloured by the seer and the seen the mind is able to understand everything.

[SV訳]: 観るものと観られるものに染められることによって、心は全てを理解する。

Sutra 4.24

तदसंख्येयवासनाभिश्र्चित्रमपि परार्थं संहत्यकारित्वात्॥२४॥
tad-asaṅkhyeya vāsanābhiḥ citram-api parārtham saṁhatya-kāritvāt ॥24॥

(読み)タダサンクイェーヤ ヴァーサナービヒ チトラマピ パラールタン サンハティヤ カーリトヴァート

(訳)数えきれない欲望を持ちながらも、心は他者(プルシャ)のために存在し、心は常にプルシャと共に活動する。

[SS]: Though having countless desires, the mind-stuff exists for the sake of another [the Purusha] because it can act only in association with It.

[SS訳]: 際限のない欲望を持ちながらも、心は他者(プルシャ)のために存在する。心はプルシャとともにしか活動できないからである。

[SV]: The mind through its innumerable desires acts for another (the Purusa), being combinations.

[SV訳]: 数えきれない欲望を持ちながらも、心は他者(プルシャ)のために、協働して行為をする。

解説・考察

ヨーガスートラの冒頭で掲げられた、「プルシャ(真我)」と「心」の概念。

「心」や「体」は真の「自己」ではなく、真我は心をただ観察し続けます。

≫ヨーガスートラ解説 1.3-1.4 〜真我はただ世界を観ている〜

気づきの瞑想(ヴィパッサナー瞑想・マインドフルネス瞑想)でも基本的な姿勢として述べられますが、変化に気づくためには、観察者側がゆらゆら変化し続けていては不可能です。心を落ち着けて鏡のように歪みや曇りのない状態にしていなければ、物事の変化に気づくことはできません。

4.18節では、心を観察する「プルシャ」の意識は不変であるので、常に心の変化には気づき続けていると説明されます。

そして、心は自己(単独で存在するもの)ではないということが改めて説明されていきます。

ヨーガスートラの考える「自己」は、常に「主体」であり、「不変の意識を持つ」ということ。

常に波立って変化したりする「心」は自己ではなく、「自然界の一部」であると扱われます。

しかしプルシャは「心」を道具として自然界を知覚するため、心を波立たないように平らに磨き上げて、自然界の本質と、自分自身の本来の姿をそこに映し出すことが、ヨーガスートラのゴールです。

数えきれない欲望(煩悩)を手放して、真我と自然界の両方の本質に気づいた心は、全てを知る能力を得るといわれます。

2.18〜2.22節で述べられたように、ゴールを達成したときは、真我のためにだけ存在していた自然界はその役割を終えます。

≫ヨーガスートラ解説 2.18-2.22 〜観るものと観られるもの〜

少し違和感があったのは、プルシャは「不変の意識を持つ」と定義されているところです。

これを最初読んだ時に「プルシャは変化しないものなのか?」と思ってしまいましたが、ヨーガスートラの中で、プルシャは経験を得たり、解脱をしたりということが行われています。

また、1.24節で述べられている「イーシュヴァラ(宇宙意識)」も「至高のプルシャ」であり、全ての知の種を持っていると述べられているので、各プルシャによって知の度合いなども異なるのだと定義されているように思えます。

これらのことから解釈すると、プルシャ自体は「変化しない」というわけではなく、物事を観たときに反応することはないが、ただただ受け入れて変化はしていくのであろうと推測されます。心がその煩悩によってカルマを積んでしまっても、拒むことなく受け入れ、カルマがたまっていれば黙って淡々と来世に再び肉体を得て生まれてくるのでしょう。

≫ヨーガスートラ解説 4.25-4.28
≪ヨーガスートラ解説 4.14-4.17

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