ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 1.3 世界を観る者(真我)が存在する
तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥
tadā draṣṭuḥ svarūpe-‘vasthānam ॥3॥
(読み)タダードラシュトゥフスヴァルーペヴァスターナム
(訳)その時(心が波立っていない時)、観る者(真我・魂)は心にその本来の姿を映し出す。
[SS]: Then the Seer [Self] abides in His own nature.
[SS訳]: その時、観る者(真我)はその自然な状態にとどまる。
[SV]: At that time (the time of concentration) the seer (Purusha) rests in his own (unmodified) state.
[SV訳]: その時(集中が成った時)観る者(プルシャ)は本来の状態に落ち着く。
Sutra 1.4 真我の姿は、心に映る
वृत्तिसारूप्यमितरत्र॥४॥
vr̥tti sārūpyam-itaratra ॥4॥
(読み)ヴルッティサールーピャミタラトラ
(訳)それ以外の時、観る者は、心の波立ちに応じて歪んだ姿で認識される。
[SS]: At other times [the Self appears to] assume the forms of mental modifications.
[SS訳]: それ以外の時、(真我は)心の変化に応じた様相を呈している(ように見える)。
[SV]: At other times (other than that of concentration) the seer is identified with the modifications.
[SV訳]: それ以外の時(集中が成っていない時)観る者は(心の)変化に応じて認識される。
解説・考察
1.3節で述べられている「観る者」は、「プルシャ」「真我」などと呼ばれる、真の自我のことを指します。
ここで重要なのは、私達が「自分」だと思っている「心」や「体」は本当の自分ではなく、たとえば「魂」とでも呼ばれるような「真我」が別に存在するという考え方です。
どこにいるのかというと、心臓の中にいるとか、下腹部にいるとか、脳の中にいるとか、いろいろな説があるようです。
それは本当なのか?と証明することはなかなか難しいので、ひとまずは「このように解釈すると、いろいろなことを説明するのに都合が良い」という哲学的な前提と捉えておきましょう。
真我は何を観ているのかというと、真我以外の全ての世界です。
なんで観ているのかという話は、輪廻転生などの話が関わってきてアタマが受け付けない人もいると思うので、いったんおいておきます(終盤の第4章あたりで詳しく出てきますので、序盤からあまり難しくしないようにします)。
ひとまずは、「心」を「自分」と切り離して考えると都合が良い、という前提だけ利用して読み進めていくと良いかと思います。
1.2節で述べられたようにヨーガスートラの教えるヨーガで主に扱う対象は「心」です。
しかし「心」が自分自身というわけではなく、それは世の中を映し出す鏡のようなものであると定義されます。
心が歪んでいたら、世の中も歪んで見えます。
なので、その歪みを取り除いていくのがヨーガスートラの目的です。
自分自身を正しく観るには、キレイな鏡が要りますね。
鏡が歪んでいれば、それに応じて真我も歪んでいるように見えます。
でも真我が歪んでいるわけではなく、心が波立っているせいで、歪んでいるように見えるだけです。
≫ヨーガスートラ解説 1.5-1.6
≪ヨーガスートラ解説 1.1-1.2