ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 2.4 無知は様々な煩悩を引き起こす
अविद्याक्षेत्रमुत्तरेषां प्रसुप्ततनुविच्छिन्नोदाराणाम्॥४॥
avidyā kṣetram-uttareṣām prasupta-tanu-vicchinn-odārāṇām ॥4॥
(読み)アヴィディヤー クシェートラン ウッタレーシャン プラスプタ タヌ ヴィッチンノーダーラーナーン
(訳)無知は、それらが休止状態・微弱な状態・妨害されている状態・持続している状態であるかに関わらず、後に述べられた他の煩悩の田地となる。
[SS]: Ignorance is the field for the others mentioned after it, whether they be dormant, feeble, intercepted, or sustained.
[SS訳]: 無知は、それらが休止状態・微弱な状態・妨害されている状態・持続している状態であるかに関わらず、後に述べられた他の煩悩の田地となる。
[SV]: Ignorance is the productive field of all these that follow, whether they are dormant, attenuated, overpowered, or expanded.
[SV訳]: 無知は、それらが休止状態・微弱な状態・抑止されている状態・持続している状態であるかに関わらず、後に続く煩悩の田地となる。
Sutra 2.5 無知とは
अनित्याशुचिदुःखानात्मसु नित्यशुचिसुखात्मख्यातिरविद्या॥५॥
anityā-aśuci-duḥkha-anātmasu nitya-śuci-sukha-ātmakhyātih-avidyā ॥5॥
(読み)アニティヤーシュチ ドゥッカーナートマス ニティヤシュチスッカートマクヤーティヒ アヴィディヤー
(訳)無知とは、永遠でないものを永遠であると認識し、不純なものを純粋と認識し、苦を楽と認識し、真我でないものを真我であると認識することである。
[SS]: Ignorance is regarding the impermanent as permanent, the impure as pure, the painful as pleasant, and the non-Self as Self.
[SS訳]: 無知とは、永遠でないものを永遠であると認識し、不純なものを純粋と認識し、苦を楽と認識し、真我でないものを真我であると認識することである。
[SV]: Ignorance is taking the non-eternal, the impure, the painful, and the non-Self, as the eternal, the pure, the happy, and the Atman or Self (respectively).
[SV訳]: 無知とは、永遠でないもの・不純なもの・苦・真我でないものを、永遠・純粋・楽・アートマン(または真我)であると捉えることである。
Sutra 2.6 我想(エゴ)とは
दृग्दर्शनशक्त्योरेकात्मतेवास्मिता॥६॥
dr̥g-darśana-śaktyor-ekātmata-iva-asmitā ॥6॥
(読み)ドルグ ダルシャナ シャクティヨーホ エーカートマタイヴァースミター
(訳)我想(エゴ)とは、「観る者(真我・魂)」と「観るための道具(体・心)」の同一視である。
[SS]: Egoism is the identification, as it were, of the power of the Seer (Purusha) with that of the instrument of seeing [body-mind].
[SS訳]: エゴとは、「観る者(真我)の力」と「観るための道具(体・心)の力」の同一視である。
[SV]: Egoism is the identification of the seer with the instrument of seeing.
[SV訳]: エゴとは、「観る者」と「観るための道具」の同一視である。
Sutra 2.7 執着とは
सुखानुशयी रागः॥७॥
sukha-anuśayī rāgaḥ ॥7॥
(読み)スッカーヌシャイー ラーガハ
(訳)執着は、快楽の上に住まう。
[SS]: Attachment is that which follows identification with pleasurable experiences.
[SS訳]: 執着とは、快楽体験との同一視によって生じる。
[SV]: Attachment is that which dwells on pleasure.
[SV訳]: 執着は、快楽の上に住まう。
Sutra 2.8 嫌悪とは
दुःखानुशयी द्वेषः॥८॥
duḥkha-anuśayī dveṣaḥ ॥8॥
(読み)ドゥッカーヌシャイー ドヴェーシャハ
(訳)嫌悪は、苦痛の上に住まう。
[SS]: Aversion is that which follows identification with painful experiences.
[SS訳]: 嫌悪とは、苦痛を伴う体験との同一視に従って生じる。
[SV]: Aversion is that which dwells on pain.
[SV訳]: 嫌悪は、苦痛の上に住まう。
Sutra 2.9 生命欲とは
स्वरसवाही विदुषोऽपि तथारूढो भिनिवेशः॥९॥
svarasvāhi viduṣo-‘pi samārūḍho-‘bhiniveśaḥ ॥9॥
(読み)スヴァラスヴァーヒ ヴィドゥショーピ サマールードホ アビニヴェーシャハ
(訳)肉体的な生命に依存すること(生命欲)は、自身の(過去の経験による)潜在的な意識に従って起こり、これは賢者すらも支配する。
[SS]: Clinging to life, flowing by its own potency [due to past experience], exists even in the wise.
[SS訳]: 肉体的な生命に依存すること(生命欲)は、自身の(過去の経験による)潜在的な意識に従って起こり、これは賢者にすら存在する。
[SV]: Flowing through its own nature, and established even in the learned, is the clinging to life.
[SV訳]: 自身の自然の流れに従って起こり、知を修めた者すらも支配するのが、肉体的な生命に依存すること(生命欲)である。
解説・考察
2.3節で述べられた以下の5つの煩悩のうち、最も根本的なものが「avidyā アヴィディヤー 無知(無明)」であると示されます。
- アヴィディヤー:無知
- アスミター:我想(エゴ)
- ラーガ:執着
- ドヴェーシャ:嫌悪
- アビニヴェーシャ:生命欲
無知によって他の煩悩が生まれると言われますが、煩悩は人によって4つの状態になっていると言われます。
- 休止状態
- 微弱な状態
- 妨害(抑止)された状態
- 維持された(顕在化している)状態
サッチダーナンダ氏の解説によれば、たとえば「赤ん坊の煩悩」は休止状態であるといいます。赤ん坊は煩悩が無いように思えますが、それは種として眠っている状態であり、時がたつにつれて顕在化してきます。
一般的な人の煩悩は顕在化していて、ヨーガを実践していくにつれて、微弱な状態・抑止された状態にしていくことができますが、修行が進んでも依然として種として眠っている煩悩は存在します。この種すらも焼き尽くそうというのが、第1章でも述べられてきた三昧への道ということでしょう。
そして、後に続く4つの煩悩それぞれに関連した「無知」の具体例が2.5節に述べられています。
インドの哲学を理解していないと、日本人にとっては簡単に納得できない論理かもしれませんが、しっくりこないのであればこの「分別法」は用いなくても良いのだと思います。そのために、ヨーガスートラの中には様々な道が示されています。
永遠でないものを永遠であると認識する・不純なものを純粋であると認識する→生命欲
自分の体や心はいずれ朽ちていくものであり、永遠ではない(無常)であると知り、そして自分の体や心を含めて世の中に顕現しているものは全てトリグナ(サットヴァ・ラジャス・タマス)のバランスが崩れたことによって生まれたものであり、真我(魂)のみがサットヴァ(純粋)であると知ることで、肉体的な生命に依存すること(生命欲)を断つことができます。
サッチダーナンダ氏の解説によれば、これは過去世において我々は何度も肉体的な死の苦痛を味わっているから、本能的にそれを恐れるのであり、賢者すらも恐れるのであるとしています。
書かれている順番的に、「不純なものを純粋であると認識する」は「嫌悪」の説明なのかなと最初は思いましたが、2.7-2.8節の内容からして、楽が執着、苦が嫌悪に結びつくということなので、下記「苦を楽と認識する」が執着と嫌悪を引き起こすと解釈しました。
苦を楽と認識する→執着・嫌悪
世の中には楽しいことや苦しいことがあると認識しているから、楽しいことをしたいと執着するようになり、苦しいことを嫌悪するようになります。輪廻や解脱の考え方を理解することで、世の中の一切は苦であると気づき、物質的な世界に対する執着がなくなります。
真我でないものを真我であると認識する→我想
体や心自体が自我であると認識していると、エゴが生まれます。これらは自我ではなく、真我とはそこに内包される魂であり、そこには元々全てが備わっていると認識することでエゴを手放すことができます。
この後の節で、これらの煩悩はどのように生まれていくのか、どのように破壊すればよいのかといった話に続いていきます。
≫ヨーガスートラ解説 2.10-2.11
≪ヨーガスートラ解説 2.1-2.3