オンラインレッスン ヨーガスートラ日本語訳
ヨーガスートラ解説 3.1-3.4 〜ダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)〜

ヨーガスートラ解説 3.1-3.4 〜ダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)〜

現代の「瞑想」の基礎にもなる、アシュターンガ後半の3支則

ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。

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英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/

訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda

Sutra 3.1 ダーラナー(集中)とは

देशबन्धश्चित्तस्य धारणा॥१॥
deśa-bandhaḥ cittasya dhāraṇā ॥1॥

(読み)デーシャ バンダハ チッタスヤ ダーラナー

(訳)ダーラナー(集中)とは、心を特定の対象に留め置くことである。

[SS]: Dharana is the binding of the mind to one place, object or idea.

[SS訳]: ダーラナーとは、心をひとつの場所・対象・アイデアに留め置くことである。

[SV]: Dharana is holding the mind on to some particular object.

[SV訳]: ダーラナーとは、心を特定の対象に留め置くことである。

Sutra 3.2 ディヤーナ(瞑想・禅定・静慮)とは

तत्र प्रत्ययैकतानता ध्यानम्॥२॥
tatra pratyaya-ikatānatā dhyānam ॥2॥

(読み)タトラ プラティヤヤ イカターナター ディヤーナン

(訳)ディヤーナ(瞑想・禅定・静慮)とは、集中対象への絶え間ない認識の流れである。

[SS]: Dhyana is the continuous flow of cognition toward that object.

[SS訳]: ディヤーナとは、その対象への絶え間ない認識の流れである。

[SV]: An unbroken flow of knowledge to that object is Dhyana.

[SV訳]: その対象にへの途切れることのない知の流れが、ディヤーナである。

Sutra 3.3 サマーディ(三昧)とは

तदेवार्थमात्रनिर्भासं स्वरूपशून्यमिव समाधिः॥३॥
tadeva-artha-mātra-nirbhāsaṁ svarūpa-śūnyam-iva-samādhiḥ ॥3॥

(読み)タデーヴァールタ マートラ ニルヴァーサン スヴァルーパ シューニャン イヴァ サマーディヒ

(訳)サマーディ(三昧)とは、対象が全ての形態を失ったかのようになり、その意味(本質)だけが映し出される瞑想状態である。

[SS]: Samadhi is the same meditation when there is the shining of the object alone, as if devoid of form.

[SS訳]: サマーディとは、その対象が形を失ったかのように独り輝く、均一な瞑想状態である。

[SV]: When that, giving up all forms, reflects only the meaning, it is Samadhi.

[SV訳]: 対象が全ての形態を失い、その意味だけが映し出されるとき、これがサマーディである。

Sutra 3.4 サンヤマ(綜制)とは

त्रयमेकत्र संयमः॥४॥
trayam-ekatra saṁyamaḥ ॥4॥

(読み)トラヤン エーカトラ サンヤマハ

(訳)これらの3つ(ダーラナー・ディヤーナ・サマーディ)をひとつの対象に対して行うことを、サンヤマ(綜制)と呼ぶ。

[SS]: The practice of these three [dharana, dhyana and samadhi] upon one object is called samyama.

[SS訳]: これらの3つ(ダーラナー・ディヤーナ・サマーディ)をひとつの対象に対して行うことをサンヤマと呼ぶ。

[SV]: (These) three (when practised) in regard to one object is Samyama.

[SV訳]: これらの3つを、ひとつの対象に対して行うことをサンヤマと呼ぶ。

解説・考察

2章まででアシュターンガ(8支則)の前半5つに関する解説が終わり、3章では後半3つについて解説されます。

前半の5つは「外的」、後半の3つは「内的」であると区別され、外側からの感覚に対して心を波立たせないように準備してから、集中→瞑想へと進んでいきます。

ダーラナー・ディヤーナ・サマーディは連続した過程であり、これら3つをあわせて綜制(サンヤマ)と呼んでいます。

瞑想とは、単に集中の練習のことを指すこともありますが、その対象物を深く理解するというのが、ここで述べられている瞑想そして綜制(サンヤマ)と呼ばれるものに近いと思います。

すべての対象、そして自分自身も本質的に観られるようになれば、第1章で示されたゴールに近づいていけるということでしょう。

ダーラナー(集中)

集中は、私達も日常で行うことがありますね。

仕事、ゲーム、読書など、なにか「対象」があり、それに対して心を留めておくことをダーラナー(集中)と呼びます。

「集中」の特徴としては、

  • 努力が必要
  • 断続的である

といったところです。

ディヤーナ(瞑想・禅定・静慮)

途切れ途切れだった「ダーラナー」が、

  • 自然に
  • 連続して絶え間なく行われる

となったとき、それが「ディヤーナ」になります。

「ディヤーナ」の日本語への訳し方は様々で、中国に伝わった時に音が近い漢字が当てられて「禅那」となり、それが日本に「禅」として伝わりました。

とはいえ禅の瞑想・坐禅とヨーガの瞑想は、アプローチが異なります。その話はまたいずれ別の記事で。

この定義からすると、「瞑想の練習」というのはすなわち「集中を途切れないようにする練習(集中力をつける)」というのがメインとなります。

瞑想がうまくできないというときは、外的な5支則がしっかり揃っているかを省みてみるのも良いでしょう。

快適で安定した坐法、正しい呼吸、心乱されない感覚制御、そういった要素を整えるために、様々なヨガポーズが役立ちます。

サマーディ(三昧)

集中→瞑想はなんとなくわかりますが、三昧はちょっとわかりにくい概念ですね。

三昧については、1.40〜1.41節などですでに述べられています。

≫三昧(定)とはどんな状態か

ヨーガスートラは、第1章でヨーガのゴールである三昧について述べられていますが、いきなりそこから入るとわかりにくいので実践的な第2章から読み始める方も多いと思います。2章から読み始めた場合は、ここで一旦1章に戻ってみると、わかりやすくなるかもしれません。

対象の本質を理解しようとしたとき、言葉や形態といった外的な表現が用いられた瞬間に心の波立ちが生じ、その本質は歪められてしまうということは第1章の「尋(論理性)」のところで解説されました。「犬」と「Dog」は同じものかもしれないが、それは人によっては意味がわからなかったり過去の記憶によって異なった印象を与えてしまう、といった感じです。

≫有尋三昧と無尋三昧

そして論理が生じるはるか前に起こってしまう、「伺(反射)」によっても、その本質は歪められてしまいます。

≫有伺三昧と無伺三昧

こういった心を乱すフィルターが全てなくなった状態で対象を観ることができれば、その本質が「独り輝く」ような状態になります。その本質とはもちろん言葉で表せるものではないということです。

フィルターがなくなって、対象と一体化したような状態・手に取るように対象が分かるようになった状態、などと表現されることもあります。

第3章では、いろいろな対象に向かってこれら3つ(サンヤマ)を行うことで、いろいろなことが分かったり超能力に目覚めたりするよ!ということがたくさん書かれています。

≫ヨーガスートラ解説 3.5-3.8
≪ヨーガスートラ解説 2.54-2.55

ヨーガスートラ日本語訳書籍

「インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」スワミ・サッチダーナンダ (著), 伊藤 久子 (翻訳)

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高橋陽介

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