ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 1.44 サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)
एतयैव सविचारा निर्विचारा च सूक्ष्मविषया व्याख्याता॥४४॥
etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣma-viṣaya vyākhyātā ॥44॥
(読み)エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマ ヴィシャヤー ヴヤクヤーター
(訳)同様にして、微細な対象に対して行われるサヴィチャーラ・サマーディ(反射を伴う三昧・有伺三昧)およびニルヴィチャーラ・サマーディ(反射を伴わない三昧・無伺三昧)は説明される。
[SS]: In the same way, savichara (reflective) and nirvichara (super or non-reflective) samadhis, which are practiced upon subtle objects, are explained.
[SS訳]: 同様にして、微細な対象に対して行われるサヴィチャーラ(反射を伴う)・ニルヴィチャーラ(至上の、反射を伴わない)サマーディは説明される。
[SV]: By this process (the concentrations) with discrimination and without discrimination, whose objects are finer, are (also) explained.
[SV訳]: この過程によって同様に、より微細な対象における識別を伴う・識別を伴わない集中もまた説明される。
Sutra 1.45 微細な対象に対する心の働きをコントロール
सूक्ष्मविषयत्वं चालिङ्गपर्यवसानम्॥४५॥
sūkṣma-viṣayatvam-ca-aliṇga paryavasānam ॥45॥
(読み)スークシュマ ヴィシャヤトヴァン チャーリンガ パリヤヴァサーナン
(訳)微細な対象は、非顕現の状態(名称・形態・想念もない、自然の完全な平衡状態)へと終着する。
[SS]: The subtlety of possible objects of concentration ends only at the undefinable.
[SS訳]: 集中の対象の精微さは、ただ定義できないものへと終着する。
[SV]: The finer objects end with the Pradhana.
[SV訳]: 微細な対象は、プラダーナ(至上・基盤・非顕現)へと終着する。
解説・考察
前項で、粗大な対象の「名前」「形態」を述べる言葉を捨て、本質的に観ることができるようになる無尋三昧について述べられましたが、ここではより微細な対象に対する三昧が定義されます。
vicārā(ヴィチャーラ)は「reflection 反射」「伺」などと訳されます。仏教においては、「尋」は思考を得る働きで、「伺」は思考を維持する働きであるとされています。
「伺」という言葉自体、解釈が分かれるようで、この解釈の過程自体が「名称によって本質的な『知』が見えなくなっている」状態のように思えてしまいますが、ここでは「尋」よりも「伺」が微細な働きであると捉えておくと良いかと思います。
「反射」という言葉からは、「考える前に、つい思ってしまうこと」といったニュアンスが感じ取れます。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想ではそういった反射が生まれる瞬間に気づき、ついつい反射的にしてしまう癖を手放していこうという練習が行われます。
たとえばピーマンを見た瞬間に「嫌い」という反射が起こってしまう人もいるでしょう。名称も形態も、ピーマンが含む栄養素といったメリットも置き去りにして、どんな思考よりも先に起こってしまうのが「反射」とするなら、これを取り除かない限り物事を本質的に観ることはできませんね。
反射が無いようにすること(無伺三昧)ができれば、全ての物事は心を波立たせることがなくなり、自然の完全な平衡状態へと戻っていくとヴィヴェーカーナンダ氏は解説しています。平衡状態とは1.16節で述べられたように全てがサットヴァ(純粋)で非顕現の状態ということでしょう。
≫ヨーガスートラ解説 1.46-1.51
≪ヨーガスートラ解説 1.42-1.43