ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 1.15 離欲とは
दृष्टानुश्रविकविषयवितृष्णस्य वशीकारसंज्ञा वैराग्यम्॥१५॥
dr̥ṣṭa-anuśravika-viṣaya-vitr̥ṣṇasya vaśīkāra-saṁjṇā vairāgyam ॥15॥
(読み)ドルシュターヌシャラヴィカ ヴィシャヤ ヴィトルシュナスヤ ヴァシカーラ サンニャ ヴァイラーギャム
(訳)見たり聞いたりした対象への渇望から開放された人の、克己の意識が「離欲」である。
[SS]: The consciousness of self-mastery in one who is free from craving for objects seen or heard about is non-attachment.
[SS訳]: 見たり聞いたりした対象への渇望から開放された人の、克己の意識が「離欲」である。
[SV]: That effect which comes to those who have given up their thirst after objects, either seen or heard, and which wills to control the objects, is non – attachment.
[SV訳]: 見たり聞いたりした対象への渇望を手放した人に訪れ、その対象をコントロールしようとする作用が、「離欲」である。
Sutra 1.16 離欲を極める
तत्परं पुरुषख्यातेर्गुणवैतृष्ण्यम्॥१६॥
tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitr̥ṣṇyam ॥16॥
(読み)タッパラム プルシャ キヤーテー グナ ヴァイトルシュニャム
(訳)プルシャ(真我)の認識によって、グナ(世界の構成物)への渇望からさえも解放される。
[SS]: When there is non-thirst for even the gunas (constituents of nature) dues to the realization of Parusha (true Self), that is supreme non-attachment.
[SS訳]: プルシャ(真我)の認識によってグナ(世界の構成物)への渇望からさえも解放されたとき、それが至上の離欲である。
[SV]: That is extreme non – attachment which gives up even the qualities, and comes from the knowledge of (the real nature of) the Purusha.
[SV訳]: プルシャ(真我)の認識によって訪れる、特質(世界の構成物)からも解放された状態が、至上の離欲である。
解説・考察
1.15節の2氏の英訳を比較してみると、vaśīkāra(コントロール)が直接示している対象が自分自身なのか、見たり聞いたりした対象物なのか、というところで異なるように思えましたが、結果的には自分の心をコントロールするということにつながるのだと思います。
対象物をコントロールするというのは、なんだか超能力のようにも聞こえますが、世界は心が映し出しているものであると考えると、心を変えれば世界の見え方も変わる、というようなことを表現していたのかもしれません。
1.16節では、以前出てきたプルシャ(真我)という概念に加えて、グナ(世界の構成物)という概念が示されます。
ちょっと小難しい概念なので、もしアタマが受け付けない場合は、ひとまずグナがなんなのかということは置いておいて、ただ「周りの世界」と捉えていても大丈夫かと思います。
「本当は全て満たされている自分自身に気づいた時、周りの世界に対する渇望がなくなる」のように捉えておけば良いかと思います。
1.3節でプルシャは「観る者」と表現されていましたが、その観ている対象(世界・自性・プラクリティ)は、3つの要素「グナ」のバランスによって生まれたと定義されます。
3つのグナ(トリグナ)とは
- サットヴァ(純粋性)
- ラジャス(動性・激性)
- タマス(停滞性・惰性)
元々、全ては純粋で均一であった世界が、ラジャスとタマスが生まれることでバランスが崩れ、様々なものが生まれたと言われます(宇宙の始まり、ビッグバンがそれにあたるのかもしれません)。
人間一人についても同じように、元々の真我はサットヴァなのですが、ラジャスとタマスによって体と心が生まれ、周りの世界に影響を受けて揺れ動き、いろいろな経験をしながら一生を送るようにつくられています。
アーユルヴェーダでも同じトリグナの概念を用いて、バランスを取りサットヴァを増やすための食べ物や技術などを示しています。
≫食べ物で、心も変わる 〜アーユルヴェーダとトリグナ(サットヴァ・ラジャス・タマス)〜
真我の存在に気づかず、心と体が自分自身だと思っているうちは、世界に対する渇望が消えることはありません。周りに期待したり、自分の体を美しくしようと執着したり、いろいろな雑念に惑わされ続けます。
完全にサットヴァ(純粋)な真我こそが自分自身だと気づいた時、世界に対して何かを求める必要がないということを悟り、真我に経験を与えるというグナの働きも終わり、渇望がなくなります。
俗に言う「悟った」というのはこういう状態のことを言うのでしょう。
「悟る」にはなにか目的語が必要ですが、この場合は「世界の真理」とでも言うのでしょうか。その真理が本当に正しいのかどうかは、科学などでは測りようがないので、自分自身の洞察力をもって見極める必要があります。ヘンな教えを信じ込んで「悟った」と思っていると、自分も周りもおかしなことになっていきます。
たくさんの人に読まれてきた聖典とはいえ、ヨーガスートラも慎重に洞察力をもって読んでいく必要があります。
また、原典に明示的に書かれているわけではないように思えましたが、2氏ともにこの離欲を1.15節の一般的な離欲とは分けて、「至上の離欲」であると述べています。
一般的な離欲を土台として、至上の離欲へと向かっていくという階梯を表現したかったように思えます。おそらくヨーガスートラ以外の様々なインド哲学を踏まえてこのように解釈されたのかもしれません。
≫ヨーガスートラ解説 1.17-1.18
≪ヨーガスートラ解説 1.12-1.14