ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 1.17 区別ある三昧
वितर्कविचारानन्दास्मितारूपानुगमात् संप्रज्ञातः॥१७॥
vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rupa-anugamāt-saṁprajñātaḥ ॥17॥
(読み)ヴィタルカ ヴィチャーラーナンダースミタールーパーヌガマー サンプランニャータハ
(訳)サムプラジュニャータ・サマーディ(区別ある三昧・有想三昧)は論証性(尋)・反射(伺)・歓喜(楽)・純粋な自意識(我想)を伴う。
[SS]: Samprajnata Samadhi (distinguished contemplation) is accompanied by reasoning, reflecting, rejoicing and pure I-am-ness
[SS訳]: サムプラジュニャータ・サマーディ(区別ある三昧)は論証性・反射・歓喜・純粋な自意識を伴う。
[SV]: The concentration called right knowledge is that which is followed by reasoning, discrimination, bliss, unqualified egoism.
[SV訳]: 正知と呼ばれる集中は、論証性・識別・至福・無条件の自意識を伴う。
Sutra 1.18 区別なき三昧
विरामप्रत्ययाभ्यासपूर्वः संस्कारशेषोऽन्यः॥१८॥
virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṁskāra-śeṣo-‘nyaḥ ॥18॥
(読み)ヴィラーマ プラティヤヤービャーサ プールヴァハ サンスカーラ シェショーニャハ
(訳)揺るぎない信念を持って、心の作用を完全に抑止する実践を絶え間なく続けることによって、あとには「行(物事がそのようになる力)」だけが残る。これがもう一つのサマーディ(アサムプラジュニャータサマーディ・区別のない三昧・無想三昧)である。
[SS]: By the firmly convinced practice of the complete-cessation of the mental modifications, the impressions only remain. This is the other samadhi [asamprajnata or non-distinguished]
[SS訳]: 揺るぎない信念を持って、心の作用を完全に抑止する実践を行うことによって、あとには「印象」だけが残る。これがもう一つのサマーディ(アサムプラジュニャータサマーディ・区別のない三昧)である。
[SV]: There is another Samadhi which is attained by the constant practice of cessation of all mental activity, in which the Chitta retains only the unmanifested impressions.
[SV訳]: 全ての心の動きを抑止する絶え間ない実践によって成される、もう一つのサマーディがある。その状態において、チッタ(心)は潜在的な「印象」だけを残す。
解説・考察
1.17・1.18節では、ヨーガのゴールである「サマーディ(三昧)」にはいくつかの段階があるということを示しています。
小難しい単語が並びますが、ヨーガスートラの中で示されている様々な「心の作用の分別法」のひとつであると考えると良いと思います。
いろいろな分別法を示してくれているのは、人の捉え方が様々であるからです。自分にとってしっくりくる分別法を取り入れれば良いので、ここで示されている話がしっくりこなければ、いったん飛ばして読んでしまっても良いと思います。
1.18節で示される三昧が、最終的なゴールであるアサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧・区別なき三昧)です。
そこに至るためのステップとして、1.17節ではサムプラジュニャータ・サマーディ(有想三昧・区別ある三昧)を4段階に分けて示しています。接頭辞の「ア」が「無い」の意味で、saṁprajñātaが「区別」などの意味のようです。ただ、1.18ではasaṁprajñātaという名前自体は出てこないので、2つの三昧を区別するために訳者たちが名付けたものと思われます。
4段階は、下記の4つに対する心の働きを順番に手放していくことで進んでいきます。
- ヴィタルカ 論証性(尋)→ 粗大な対象(具象)、五感で感じ取れるもの
- ヴィチャーラ 反射(伺)→ 微細な対象(抽象)、「愛」「美」などといった概念
- アーナンダ 歓喜(楽) → 心そのものの純粋な働き、そこには「喜び」だけがあると言われる
- アスミター 自意識(我想)→ 「私」という意識のみ
それぞれ、サ(有る)という接頭辞をつけて、サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)…などと呼ばれることもあります。
三昧に至るには、対象に向かって集中→瞑想をする(参考:ヨガの8支則)ことで、対象の本質を理解する必要があります。
ちなみに仏教の瞑想(禅定)における段階は下記の4つで、似ているところがあります。おそらく互いに影響し合いながら、それぞれの分別法を確立していったように思えます。
初禅 paṭhama-jhāna (梵 prathamadhyāna)
諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。第二禅 dutiya-jhāna (梵 dvitīyadhyāna)
尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。第三禅 tatiya-jhāna (梵 tṛtīyadhyāna)
喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。第四禅 catuttha-jhāna (梵 caturthadhyāna)
楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。出典:Wikipedia
仏教では、ヨーガスートラの分類と異なり、喜と楽を分けています。喜びはより粗大で一時的なもの、楽はより微細で持続的なものといった捉え方をします。
1.18節では、1.12〜13節で出てきた絶え間ないアビヤーサ(修習)が再び説かれます。
それによって無想三昧に至るということですが、このとき「サンスカーラ(行・印象)」だけが残ると言われます。
サンスカーラ、いろーんな解釈をされている言葉です。英訳ではimpression、印象が残る?ちょっとよく分からないですね。
仏教における「因果応報」の十二縁起の説明がとても分かりやすいように思えたので、この解釈を紹介します。
行(ぎょう、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) – 生活作用,志向作用。物事がそのようになる力=業
出典:Wikipedia
ヨガを教える人たちはサンスカーラを、「物事を”そのように”捉えてしまう志向作用」と定義することが多いように思えます。
同じことが起こっても、人それぞれ捉え方が違うのは、サンスカーラが原因ということです。
これは、今までどんな経験をしてきたかということによって形成されます。これには前世からの経験も影響すると言われます(業・カルマなどとも呼ばれる)。
この時点ではサンスカーラ自体は手放すことはできず、それだけは残ります。
1.18節で用いられるサンスカーラという概念は、世界の全てが「そのようになる力」によって動いていると定義して、「必ずそのようになるのだから、いちいち心乱されないようにしよう」という悟りへと至る道筋を示していると思われます。キリスト教などの「全ては神の導きのままなので、信じるだけで良いのです」という考え方にも近いものを感じます。
≫ヨーガスートラ解説 1.19-1.20
≪ヨーガスートラ解説 1.15-1.16