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ヨーガスートラ解説 1.46-1.51 〜有種子三昧と無種子三昧〜

ヨーガスートラ解説 1.46-1.51 〜有種子三昧と無種子三昧〜

ゴールに至ったのだ!という想いさえも手放し、自然に佇む

ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
どのように訳していくかなどは、下記の記事に書いてあります。
≫ヨーガスートラ解説 1.1-1.2

≫ヨーガスートラ解説記事一覧
≫ヨーガスートラ日本語訳

ヨーガスートラの概要については、下記の記事にまとめてあります。

≫ヨーガスートラとは

英訳出典:http://yogasutrastudy.info/

サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/

訳者の略称は下記の通りです。

[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda

Sutra 1.46 有種子三昧とは

ता एव सबीजः समाधिः॥४६॥
tā eva sabījas-samādhiḥ ॥46॥

(読み)ターエーヴァ サビージャハ サマーディヒ

(訳)これらのサマーディはサビージャ・サマーディ(有種子三昧)、心の波立ちや束縛へと戻る可能性を持つ。

[SS]: All these samadhis are sabija (with seed), which could bring one back into bondage or mental disturbance.

[SS訳]: これらのサマーディはサビージャ(有種子)、心の波立ちや束縛へと戻る可能性を持つ。

[SV]: These concentrations are with seed.

[SV訳]: これらの集中は種子を伴う。

Sutra 1.47 心の波立ちが止まり、真我が映り出す

निर्विचारवैशारद्येऽध्यात्मप्रसादः॥४७॥
nirvicāra-vaiśāradye-‘dhyātma-prasādaḥ ॥47॥

(読み)ニルヴィチャーラ バイシャーラディエー ディヤートマ プラサーダハ

(訳)ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)が純粋になれば、至高の真我が輝く。

[SS]: In the purity of nirvichara samadhi, the supreme Self shines.

[SS訳]: ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)が純粋になれば、至高の真我が輝く。

[SV]: The concentration “without reasoning” being purified, the Chitta becomes firmly fixed.

[SV訳]: 論理を伴わない集中が浄化されれば、チッタ(心)はしっかりと落ち着く。

Sutra 1.48 有種子三昧で得られる真理

ऋतम्भरा तत्र प्रज्ञा॥४८॥
r̥taṁbharā tatra prajñā ॥48॥

(読み)リタンバラー タトラ プランニャー

(訳)これがリタムバラー・プラジュニャー、絶対的な真理を得た状態である。

[SS]: This is ritambhara prajna, or the absolute true consciousness.

[SS訳]: これがリタムバラー・プラジュニャー、または絶対的な真理の意識である。

[SV]: The knowledge in that is called “filled with Truth.”

[SV訳]: これが「真理に満ちた知」と呼ばれるものである。

Sutra 1.49 真理と他の知識の比較

श्रुतानुमानप्रज्ञाभ्यामन्यविषया विशेषार्थत्वात्॥४९॥
śruta-anumāna-prajñā-abhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt ॥49॥

(読み)シュルターヌマーナ プランニャービャン アニヤヴィシャヤー ヴィシェーシャールタトヴァー

(訳)この特別な真理は、聞いたり・聖典から学んだり・推量したりして得られる知識とは完全に異なる。

[SS]: This special truth is totally different from knowledge gained by hearing, study of scripture of inference.

[SS訳]: この特別な真理は、聞いたり・聖典から学んだり・推量したりして得られる知識とは完全に異なる。

[SV]: The knowledge that is gained from testimony and inference is about common objects. That from the Samadhi just mentioned is of a much higher order, being able to penetrate where inference and testimony cannot go.

[SV訳]: 聖典から得たり推量したりして得られる知は、一般的な対象に対する知識である。ここで述べられたようなサマーディから得られる知はより高位のもので、推量や聖典から得られる知が到達できない領域へ達することができる。

Sutra 1.50 行からの解放

तज्जः संस्कारोऽन्यसंस्कारप्रतिबन्धी॥५०॥
tajjas-saṁskāro-‘nya-saṁskāra pratibandhī ॥50॥

(読み)タッジャハ サンスカーローニャ サンスカーラ プラティバンディー

(訳)このサマーディによって生じる行は、他の全ての行を消し去る。

[SS]: The impression produced by the samadhi wipes out all other impressions.

[SS訳]: このサマーディによって生じる印象は、他の全ての印象を消し去る。

[SV]: The resulting impression from this Samadhi obstructs all other impressions.

[SV訳]: このサマーディによって生じる印象は、他の全ての印象を覆い隠す。

Sutra 1.51 無種子三昧とは

तस्यापि निरोधे सर्वनिरोधान्निर्बीजः समाधिः॥५१॥
tasyāpi nirodhe sarva-nirodhān-nirbījaḥ samādhiḥ ॥51॥

(読み)タシャーピ ニローデー サルヴァニローダーンニルビージャハ サマーディヒ

(訳)この行すらも消え去った時、全ての行が消える。これがニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)である。

[SS]: When even this impression is wiped out, every impression is totally wiped out ant there is nirbija [seedless] samadhi.

[SS訳]: この印象すらも消え去った時、全ての印象が消え、そこにはニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)がある。

[SV]: By the restraint of even this (impression, which obstructs all other impressions), all being restrained, comes the “seedless” Samādhi.

[SV訳]: 他の印象を全て覆い隠すほどのこの印象さえも抑止することによって、全てが抑制され、「種子の無い」サマーディが訪れる。

解説・考察

前項までで述べられた4つの三昧、

  • サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)
  • ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)
  • サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)
  • ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)

これらは有種子三昧と呼ばれ、ある程度心をコントロールできる状態に達したとしても、また元に戻ってしまう「 bīja ビージャ 種子」を内包しているとされます。

とはいえ有種子三昧の最後である無伺三昧まで至った人は、聞いたり・聖典から得たり・推量から得たりする知(1.7節で述べられた「正知」)とも全く異なる高い次元の知が得られるといいます。

そういった知は、もちろん言葉で説明されるものではなく、人から授かるものでもないのでしょう。

インドに伝わる話で、ある有名な神様が、弟子に「真理を教えてください」と言われ、「よかろう」と言ったままずーっと黙っていたそうです。弟子は何かを悟り、「ありがとうございました」とその場を去りました。つまり真理というものは言葉で語れるものではなく、無言(物理的にも・心的にも)の中にこそ訪れるという教えだったようです。

有種子三昧に至ると、そこで得られる「印象」は他の全ての「印象」を消し去るといいます。ここでまた「saṁskāra サンスカーラ 印象」という言葉が出てきますが、1.18節で述べたように日本語で「印象」というとわかりにくいので、仏教でも用いられている訳し方「行(業):ものごとがそのようになる力」と解釈すると良いと思います。

1.18節で述べられたアサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)では行だけが残っていました。

その行からも解放されることを目指し、有種子三昧では他の全ての行が消え去ります。それでもまだ、心が元にもどる「種子」を持っていては完璧ではありません。

この種子とは、たとえば「私は有種子三昧に至ったのだ!」という想いなどが残っていると、「そこにとどまりたい」という執着が再び生まれる可能性があるというイメージです。

完全に自然で平衡した状態であり、サマーディ?なにそれ?普通じゃない?ぐらいの感覚でそこに佇んでいる状態が、無種子三昧に近いのかもしれません。

1.51節が第1章の最後の節であり、ヨーガのゴールを示しています。

生きながらにして行から完全に解放された人を「ジーヴァン・ムクタ」と呼ぶそうです。行から解放されたら、死なないのでは?と思えますが、死んでいくのは体であって、それは自分ではなく魂の衣のような前提です。なので、聖者と呼ばれた人たちは、その衣が傷んでいったら脱ぎ捨てるのは自然なことだと悟っていたのでしょう。不滅なのは、真我(魂)だということです。

途方もない話のように思えるかもしれませんが、たとえば日々のヨガの実践に照らし合わせて考えてみることもできます。

「私は◯◯アーサナをできるようになった!」という状態に至ったとしても、それが歳をとるにつれてできなくなることを恐れたり、毎日練習しないとできなくなりそうで…と執着してしまっていては、ちょっと違うということですね。

理想としては体や心が根本的に変わり、自然に生きながら、◯◯アーサナで身につけた柔軟で強い体・努力して身につけた強い心を自然に活かしながら振る舞えるようになれると良いですね。

アーサナもヨガ自体も、ステータスでもなく資格試験でもなく、自然に過ごしやすい心と体に戻していくためのヒントとなるものであって、いつまでも飲み続けなければいけない薬とは違い、いつかは不要になるものなのではないかと思います。

≫ヨーガスートラ解説 2.1-2.3
≪ヨーガスートラ解説 1.44-1.45

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