ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 3.36(3.35)
सत्त्वपुरुषयोरत्यन्तासंकीर्णयोः प्रत्ययाविशेषो भोगः परार्थत्वात् स्वार्थसंयमात् पुरुषज्ञानम्
sattva-puruṣāyoḥ atyantā-saṁkīrṇayoḥ pratyayāviśeṣo-bhogaḥ para-arthat-vāt-sva-arthasaṁyamāt puruṣa-jñānam ॥35॥
(読み)サットヴァプルシャーヨーホ アティヤンターサンキールナヨーホ プラティヤヤーヴィシェショーボーガハ パラールタットヴァートゥスヴァールタサンヤマート プルシャンニャーナン
(訳)心とプルシャ(真我)は完全に異なっていて、これらを混同することは全ての経験(苦難や快楽)の原因となる。これらの違いに対してサンヤマを行うことによって、プルシャに関する知が得られる。
[SS]: The intellect and the Parusha (or Atman) are totally different, the intellect existing for the sake of Parusha, while the Parusha exists for its own sake. Not distinguishing this is the cause of all experience; and by samyama on the distinction, knowledge of the Parusha is gained.
[SS訳]: 知性とプルシャ(またはアートマン)は完全に異なっていて、プルシャが自分自身の目的のために存在するのに対して、知性はプルシャの目的のために存在する。これらを混同することは全ての経験の原因となり、そしてそれらの違いに対してサンヤマを行うことによって、プルシャに関する知が得られる。
[SV]: Enjoyment comes by the non-discrimination of the very distant soul and Sattva. Its actions are for another; Samyama on this gives knowledge of the Puruca.
[SV訳]: 快楽は、深遠な魂とサットヴァを混同することによって訪れる。それらの活動はお互いのために行われる。これに対してサンヤマを行うことによって、プルシャに関する知が得られる。
Sutra 3.37(3.36)
ततः प्रातिभश्रावणवेदनादर्शास्वादवार्ता जायन्ते॥३६॥
tataḥ prātibha-srāvāṇa-vedana-ādarśa-āsvāda-vārtā jāyante ॥36॥
(読み)タタハ プラーティバ スラーヴァーナ ヴェーダナーダルシャースヴァーダ ヴァールター ジャーヤンテー
(訳)このプラティバー(真我に関する、輝ける知)によって超自然的な聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が得られる。
[SS]: From this knowledge arises superphysical hearing, touching, seeing, tasting, and smelling through spontaneous intuition.
[SS訳]: この知によって超自然的な聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が自発的な直観によって得られる。
[SV]: From that arises the knowledge of hearing, touching, seeing, tasting, and smelling, belonging to Pratibha.
[SV訳]: これによって、プラティバー(輝ける知性)に属する聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚に関する知が得られる。
Sutra 3.38(3.37)
ते समाधावुपसर्गा व्युत्थाने सिद्धयः॥३७॥
te samādhav-upasargā[ḥ]-vyutthāne siddhayaḥ ॥37॥
(読み)テー サマーダウ ウパサルガーハ ヴユッターネー シッダヤハ
(訳)これら(超自然的な感覚)はサマーディへの道においては障害となるが、世俗的な追求においてはシッディ(霊能・成就)となる。
[SS]: These [superphysical sense] are obstacles to [nirbija] Samadhi but are siddhis (powers or accomplishments) in the worldly pursuits.
[SS訳]: これら(超自然的な感覚)は無種子三昧への道においては障害となるが、世俗的な追求においてはシッディ(霊能・成就)となる。
[SV]: These are obstacles to Samadhi; but they are powers in the worldly state.
[SV訳]: これらはサマーディへの道においては障害となるが、俗世においては力となる。
解説・考察
3.36節では、ヨーガスートラで繰り返し述べられている「自然界」と「真我」の区別について再び語られています。
ここでの「サットヴァ」という言葉の解釈は、訳者によって異なるようです。1.16節で出てきたように、サットヴァはプラクリティ(自然界)を構成するグナ(構成物)の基本的な要素です。
そして私達が「自分」だと思いがちな「心」も、変化が絶えない自然界の一部であると定義されます。
そのためここでのサットヴァの解釈として、自然界と訳されたり、心と訳されたり、プラクリティから生じる心の最も原初的な状態であるブッディ(覚・知性)と訳されることもあるようです。
いずれにしても、プルシャと混同されがちなものであり、これらを混同している限り解脱は起こらず、いろいろな経験をするための自然界が存在し続けるということは2.18節などで語られてきました。
そしてプルシャを知ることによって超自然的な感覚すら身につく、と3.37節で述べられています。
感覚器官によって我々が見たり聞いたりしているのは、真我に経験を与えるために存在する自然界であり、真我の本質を知ることによって自然界の本質も分かるという意味もあるのかと思います。
しかしそれらの能力は、世俗的な目的においては超能力としてもてはやされますが、究極の目的であるサマーディに至るためには、障害でしかないと述べられます。超能力に執着しないようにと、引き続きヨーガスートラは揺さぶってきます。
≫ヨーガスートラ解説 3.39-3.50(3.38-3.49)
≪ヨーガスートラ解説 3.30-3.35(3.29-3.34)
(※)3.22節に関しては、訳者によっては抜けているため、このあとの節番号がひとつずつズレている訳本もあります。この節が後世に付け加えられたものとされているのか、詳細は分かっていないようです。そのため、ヨーガスートラは全体で195節とする場合と、196節とする場合があります。ここでは3.22節は存在するとしてカウントした節番号をメインに使い、存在しないとした場合の節番号をカッコで示すことにします。