ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 2.16 未来の苦は避けられる
हेयं दुःखमनागतम्॥१६॥
heyaṁ duḥkham-anāgatam ॥16॥
(読み)ヘーヤン ドゥッカン アナーガタン
(訳)未来の苦は、避けることができる。
[SS]: Pain that has not yet come is avoidable.
[SS訳]: まだ訪れていない苦は、避けることができる。
[SV]: The misery which is not yet come is to be avoided.
[SV訳]: まだ訪れていない悲しみは、避けることができる。
Sutra 2.17 苦の原因
द्रष्टृदृश्ययोः संयोगो हेयहेतुः॥१७॥
draṣṭr̥-dr̥śyayoḥ saṁyogo heyahetuḥ ॥17॥
(読み)ドラシュトル ドルシュヤヨーホ サンヨーゴー ヘーヤヘートゥフ
(訳)この避けられる苦の原因は、観るもの(プルシャ・真我)と観られるもの(プラクリティ・自然)の結合である。
[SS]: The cause of that avoidable pain is the union of the Seer (Purusha) and the seen (Prakriti, or Nature).
[SS訳]: この避けられる苦の原因は、観るもの(プルシャ・真我)と観られるもの(プラクリティ・自然)の結合である。
[SV]: The cause of that which is to be avoided is the junction of the seer and the seen.
[SV訳]: 避けられるものの原因は、観るものと観られるものの結合である。
解説・考察
2.15節で、結局は全てが苦であるという説明がされましたが、まだ訪れていない未来の苦は、避けることができるといいます。
この物質世界に生を受けること全てが苦であるので、それがすなわち解脱への道ということでしょう。
ここで再び、観るもの(プルシャ・真我)と観られるもの(プラクリティ・自性)が出てきます。
序盤の1.3節などで示されたように、ヨーガスートラでは真我(魂)と、それ以外の全て(体や心も含む、物質世界の全部)を分けて考えます。
「体や心が自分である」という認識は、2.4・2.5節で述べられたように全ての煩悩を生む根本的な「無知」であり、2.17節で述べられるプルシャとプラクリティの結合を意味します。
私は最初にヨーガスートラを読んだ時に、これを誤解していたので一瞬混乱しました。
というのも、「ヨーガ」という語は「結合」などの意味を持つ言葉であると知っていたので、プルシャとプラクリティが結合したらゴールなんだろうなーと思ってしまったからです。
むしろこれは無知な解釈でした。
ではなぜこんな結合をするように人は創られてしまったのか?
この結合を経験することで、プラクリティはプルシャに経験を与え、魂の進化につながっていくという意味があり、これは必要な過程(神が与えた試練、的なもの)であるということが後の節で述べられていきます。
≫ヨーガスートラ解説 2.18-2.22
≪ヨーガスートラ解説 2.12-2.15