ハタヨーガの古典の中で、最も体系化されているとして重要視されているハタヨーガプラディーピカー。
今回は最終節まで、ラージャヨーガに至る各段階、そして最終的に至る境地について説明されている部分を紹介します。
以下、日本語訳は「ヨーガ根本経典/佐保田鶴治」から引用しています。
この記事の目次
ヨーガの4段階
4.69 〔ヨーガの四段階〕アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。
4.70 〔アーランバ段階〕梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、妙えなる、さまざまな、装身具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。
4.72 〔ガタ段階〕この第二の段階においては、気はかの音と合体して、ノドのあたりにある第五チャクラに進む。その時ヨーギーはしっかりと坐を組み、賢明にして、神にひとしいものとなる。
4.73 それから、ヴィシヌ神の結節が調気の修行をもって破られると、無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とがノドのチャクラの空処で起る。
4.74 〔パリチャヤ段階〕この第三段階では、眉と眉の間にマルダラ(鼓の一種)の音のような音がはっきりと知覚される。その時、気はすべてのシッディ(霊力)の根拠である眉間にあるアージナー・チャクラの大空処に達する。
4.76 〔ニシパティ段階〕気がルドラ神の結節を破って、シヴァ大神の御座所に達する。その時、フルートの音やヴィーナーを弾ずるような音が聞こえる。
ゴールへ至るまでの4段階が示されています。この4段階は、ハタヨーガ以外でも出てくることがありますが、ここではチャクラや結節(グランティ)を用いてハタヨーガ的な観点での4段階を示しています。
ひとまずこの4つの語の意味を調べてみましょう。
- アーランバ ārambha:「始まり」「支え」などの意味
- ガタ ghaṭa:「壺」「瓶」などの意味
- パリチャヤ paricaya:「集約」「積み重ね」「実践」などの意味
- ニシパティ niṣpatti:「達成」「完成」などの意味
アーランバは「サーランバサルヴァンガーサナ」などアーサナの名前のなかにも出てきますね。この場合は「支え」という意味で用いられます。
パリチャヤ、ニシパティなどはそのままの意味で自然に捉えられますが、ガタだけはちょっと異様な感じがします。なぜ突然「壺」なのか。
ハタヨーガに関する重要教典としてハタヨーガプラディーピカーと並んで挙げられることの多いゲーランダサンヒターでは、実はハタヨーガではなくガタヨーガと呼んでいます。
「ガタ(壺)」の意味としては、「焼いて強く固める」といった意図が込められていると言われます。第2段階としてガタが入っているのは、そういう意味があるのでしょう。
各段階は、グランティの破壊およびそれに伴うチャクラの覚醒と関連付けられています。
3つのグランティは以前の記事でも解説しましたが、下記のようになっています。「梵天」はブラフマーです。
- ブラフマ・グランティ:骨盤底または尾骨
- ヴィシュヌ・グランティ:腹部または心臓
- ルドラ・グランティ:喉または眉間
参考記事:ハタヨーガプラディーピカー概説 3.1-3.5 〜ハタヨーガの原理〜
聞こえてくる様々な音
上記4段階の中でも、様々な音に関する描写がありました。
ナーダ音を観想する方法は、とても重要なものとして長々と語られています。
4.90 花の蜜を吸っている蜂が、花の匂いを意に介さないように、内部の妙音に引きつけられたこころはその他の対象を認めない。
4.95 ヨーガ行者にとって、ナーダはこころという馬のうまやの戸口のかんぬきの役目をする。それ故に、ヨーギーは毎日怠らずにナーダ観想を行じなければならない。
馬の比喩はウパニシャッドの時代からよく行われてきました。いくつかパターンはあるようですが、馬(10頭)は感覚器官(5頭)と運動器官(5頭)を表し、手綱は意(マナス)、御者は理智(ブッディ)、真我(アートマン)は馬車の中にいる、といった表現です。馬が暴れないように厩の中にかんぬきをかけてとどめておくということは、感覚器官や運動器官を制御できていることを意味するのでしょう。
ナーダ音自体の表現は、太鼓やフルートや蜂の音などいろいろなものが体内から聞こえるというように述べられています。
4.83 この音は、観想の修習を重ねるにつれて、外界の音を圧倒する。ヨーギーは半月にしてすべての雑念を克服して、安楽を得る。
4.84 初期の行中には、いろいろな種類の大きな音が聞こえる。それから、修行が進むにつれて次第に微妙な音が聞こえてくる。
前述の4段階によれば、各チャクラが目ざめていくことによって、よりたくさんの種類の音が聞こえてくるようになるということでしょう。
幻聴が聞こえるの…?こわい…と思ってしまいますが、意図しないタイミングで突然聞こえてくるわけではないでしょう。
心を不動にするように修行を重ねた上で、高度な集中を行ってはじめて聞こえてくる音であり、さらに集中を深めるために外部の音や刺激を遮断するために用いられるものです。
とはいえ、いろいろな衝撃によってチャクラが不意に目ざめてしまう人もいるようで、その場合は意図しない幻聴として現れてしまうこともあるのでしょう。
ヨーガで紹介されている能力は、正しい修行を行うことなく目ざめてしまうと悲劇を生む、ということはたびたび警告されています。
この世界には、通常の肉体的器官では知覚できないものが、たくさん存在しているのかもしれません。
解脱の境地
4.100 アナーハタ・チャクラの音のひびきが聞こえると、そのひびきのなかへ所知(対象)が入り、そして所知のなかへこころが入る。こころはそこ(所知)において消滅する。これがヴィシヌ神の最高境地である。
4.101 アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音もないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。
ここまでナーダ音への観想によって、他のすべての感覚や心の動きを止めてきましたが、最後に音とともに全ての想念を消していくという境地へ向かいます。
このような過程はヨーガスートラと同じように思えます。ヨーガスートラでも対象を選びそこへ集中・瞑想・三昧というサンヤマを施すことによって、その他の想念を消していきます。そして最後にその対象から受ける印象すらも消え去ったときに、ゴールである無種子三昧にたどり着きます。
一体そこにはなにがあるのか?それは「認識できないもの」であり、つまり「認識主体」すなわち至上の「我」であると説かれます。
「認識主体」あるいは「至上我」といった言葉が当てられてしまった時点で、それはもうそれではなくなってしまうので、実際は言葉では説明できないのです。なので、「ネーティ、ネーティ(あれでもない、これでもない)」といった形で説明されます。
カイヴァリヤ(独存)も、何にも依って立たない状態、なんとも表現できない状態、として同様な状態を表す表現です。
4.105 日々怠らずにナーダを観想するならば、積もり積もった罪苦が消える。こころと気とは必然に無色な存在(至上我)のうちに没入するのである。
4.106 ウンマニー(三昧)の状態に入って、肉体が棒きれのように不動になった時には、上述の如き法螺貝や太鼓の音は全く聞こえないのである。
罪が許されるのかどうか、というのは宗教によって様々な解釈があります。日本では浄土真宗の「悪人正機説」などもその代表例でしょう。
ここではナーダ観想によって罪苦が消えると簡単に言ってしまっていますが、厳密に考えるなら議論は尽きないでしょう。カルマの話など、そのあたりの説明をする理論はたくさんインド哲学の中にあります。
そして、三昧に至った人がどんな状態なのか、また改めて述べられています。
4.107 ヨーギーにして、すべての心理状況から脱却し、すべての想念を喪失し、死人の如き有様であるならば、その人はすでに生きながら解脱したのである。このことに疑う余地はない。
この節だけ読むと、死んでいるのと何が違うのかがよくわかりません。さらに下記の節で説明が加えられます。
4.112 行者にして、意識がはっきりしていて、覚醒の状態にあるにもかかわらず、眠っているひとのような有様であり、呼吸することもないならば、そのひとは疑いもなく解脱者である。
眠っているのとも何が違うのか。
これまでの行法などを踏まえて考えると、もちろんただ死ぬわけでも眠るわけでもなく、これらの状態になりつつも「常に意識ははっきりしていて」かつこれらの状態へ「自在に入ったり、抜けたりすることができる」という境地にいる人、ということなのでしょう。一般的には、死ぬことも難しいですし、死んで戻ってくるのは不可能です。
生きながらにして死んでいるような状態を作り出すことによって、肉体的感覚では得られなかった知覚を得ることができるということでしょう。
現代ヨガのレッスンでほぼ必ず行われるシャヴァーサナも、このように「明確な意識を持ちながら、死人になりきる」ということを体現しているのだと思います。
なので、シャヴァーサナを真剣に行うときは、なるべく動かず、感覚器官を働かせず、心も動かさないようにしていくと良いでしょう。
そうすると、呼吸は次第に落ち着いて、ほとんど止まっているような状態へ近づいていき、ケーヴァラクンバカへと向かっていきます。
シャヴァーサナ(屍のポーズ) 〜「生きている」ということに気づく〜
参考記事:ハタヨーガプラディーピカー概説 2.71-2.78 〜最後のプラーナーヤーマ、ケーヴァラ・クンバカ〜
まとめ
4.114 気が中央の道(スシュムナー気道)を通ってブラハマ・ランドラの洞穴に流入しないかぎり、また気の風を緊束する結果として精液が不動とならないかぎり、まためい想のなかでこころが自己本来(真我、梵)の姿に等しくならないかぎり、どんな知識を説こうとも、それは慢心から出た偽りの饒舌にすぎない。
最終節で、三昧に至った人の状態の数々をハタヨーガ的に改めて表現するとともに、修行者への戒めが書かれています。
この節は、原語のサンスクリット語ではとてもリズム良く綴られています。
修行を進めていくと、いろいろな変化が訪れますが、ここで示されてきたような状態に至っていないのであれば、慢心してあれこれ知識を説くべからずと言っています。また、そのように解脱に至っていないのにもっともらしく語る師匠に出会ったとしても、騙されてはならないといったことも感じ取れます。
現代ヨガでも、アーサナを行って身体が柔らかくなったり、やせてスタイルが良くなったりといったわかりやすい変化もあれば、心が乱されにくくなったりといった内面的な変化もあるでしょう。
変化に喜んで慢心してしまうと、身体はリバウンドして太ったり怪我をしたりすることもあり、心はさらに早く変化するのですぐに元の乱されやすい癖へと戻ってしまいます。
気づきを常にはたらかせつつ、心は平静を保ちながら、正しく深めていきましょう。
以上でハタヨーガプラディーピカー概説を終わります。ハタヨーガの内容を踏まえて、約1000年前に綴られたヨーガスートラを、また読んでみるのも良いと思います。
また、ハタヨーガプラディーピカーよりもハタヨーガの行法がたくさん載っている「ゲーランダサンヒター」の概説も参考にしてみてください。
(前)ハタヨーガプラディーピカー概説 4.1-4.34 〜ヨーガが成った状態を表す、様々な表現〜
参考文献
「サンスクリット原典 翻訳・講読 ハタヨーガ・プラディーピカー」菅原誠 (著)
「Asana Pranayama Mudra Bandha 英語版」Swami Satyananda Saraswati (著)