ハタヨーガの古典の中で、最も体系化されているとして重要視されているハタヨーガプラディーピカー。
今回は、第4章「ラージャヨーガ」の冒頭部分、ハタヨーガを修めた後にラージャヨーガが成ったとき、人はどのようになるのか、様々な表現を用いて説明されている部分を紹介します。
以下、日本語訳は「ヨーガ根本経典/佐保田鶴治」から引用しています。
ヨーガのゴールを表す様々な語
4.2 今やわたしは、最もすぐれた三昧(観想)のいろいろな段階について説こう。これこそは死を破り、幸福への手段となり、梵の妙楽をもたらすものである。
4.3 ラージャ・ヨーガ、三昧、ラヤ、ウンマニー、マノーマニー、不死性、真実在、空不空、至上の境地、無心地、不二、無所依、無垢、現世解脱、生得、第四境地などというのはすべて同義語である。
様々な語を用いて、これらはすべてラージャヨーガのゴールを表す同義語であると述べられています。
ここに出てくる言葉の中には、「空不空(シューニャ・アシューニャ)」のように仏教で用いられるものもあり、これまでの歴史で存在したいろいろな宗教と比較して、ハタヨーガおよびラージャヨーガがすべて包括しているのだという主張を感じます。
ヨーガスートラにも出てくる、三昧(サマーディ)や現世解脱(ジーヴァンムクティ)の語も見られます。
参考記事:ヨーガスートラ解説 4.31-4.34 〜ヨーガのゴール〜
「不二」という語もでてきますが、不二一元論と二元論に関する議論も、長い歴史の中で終わりなく続けられてきました。ハタヨーガはヨーガスートラとは異なり、不二一元論(アドヴァイタ)の立場に立っていると言われます。
三昧に関する様々な表現
4.5 塩が水に溶けこんで一体となるように、アートマン(真我)と意とが合一した状態を三昧という。
4.6 プラーナ(生命のエネルギー)が弱まり、意(心理器官)の動きが消え去ったときの平等一味の状態が三昧とよばれる。
4.7 ジーヴァ・アートマン(個人的真我)とパラマ・アートマン(宇宙的真我)の両者が均一となり、さらに合一した状態、従ってすべての想念が消え去った状態が三昧とよばれる。
4.15 気が生きはたらき、意(心理器官)が死なない限り、〔真我の〕直観智がどうして意のなかに生じようぞ。気と意の二つを滅ぼし得た人は解脱に達する。その他の人はとても解脱に至ることはできない。
プラーナが動けば心も動く。心を不動にするには、プラーナの流れも止める必要があると言われます(4.15節)。
プラーナと心の働きを止めたとき、真我が現れ、そして個人的真我が本来一体であった宇宙的真我の元へと還っていきます。
このとき、佐保田氏は「想念」と訳していますが、原語の「サンカルパ saṅkalpa」は「意志、意図、目的」などといった意味の言葉であり、個人的な意図などが一切消え去って、宇宙意識の元に働いている状態を表しているのかもしれません。
このあたりまでは、心を扱っているのでヨーガスートラの描く三昧に近いものがありますが、ここからプラーナやナディやクンダリニーなどを用いたハタヨーガ的な三昧の描き方が始まっていきます。
4.10 種々のアーサナ、さまざまなクンバカ、いろいろな作法によって、かの偉大なシャクティが目ざめた時にはプラーナは虚空の中に消え去る。
4.11 ヨーギーにして、そのシャクティ(クンダリニー)の覚醒が起り、すべての業作を捨て去ったならば、彼にはおのずから忘我の状態が発現する。
4.12 プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空の中に埋没した時には、このヨーガの達成者はすべての業作の根を絶ってしまう。
最終的にはプラーナの流れを止めるのが目的になりますが、まずはスシュムナー気道(一般人はここが詰まっていて流れていない)をクンダリニーの力によって浄化し、プラーナが流れるようにする必要があるということでしょう。プラーナとクンダリニーは混同されがちですが、全く別のエネルギーとして扱われます。
これによって、解脱を妨げる「業作(カルマ)」の根を絶つことができるといいます。カルマはヨーガスートラや仏教などでも重要な要素となっており、このあたりにも他の行法との比較の意図が感じられます。
スシュムナー気道の重要性
4.16 つねに善き地域に住まい、スシュムナーを開くよき方法を知り、気を中央の道(スシュムナー)に流し、ブラハマ・ランドラに気を封じこむべし。
4.17 日と月の両者が夜と昼とから成る「とき」を作る。スシュムナー気道はその「とき」を食らうものである。このことは秘儀であるとされる。
4.20 かくて気がスシュムナーのなかを流れていく時にマノーマニー心境が成立する。さもないのに、他の種々の修練をするのはヨーギーにとって疲労をもたらすだけである。
このあたりの話は、3章で出てきたケーチャリームドラーなどの技法の中で述べられています。
参考記事:ハタヨーガプラディーピカー概説 3.32-3.54 〜ケーチャリームドラーのやり方と重要性〜
「月」とも表現される頭の中にある空洞(ブラフマ・ランドラ)から流れ落ちる甘露(アムリタ)が、へそのあたりにある「日」によって消費されることによって人は死に近づいていくと考えられており、つまりそれが「時」をつくりだすということです。
この流れをコントロールできるようになれば、老いをもたらす「時」に縛られなくなるのでしょう。
気と意(心の働き)の関係
4.22 心の動きの因となるのは熏習と気息の二つである。この両者のうち一つが消えるときは両者ともに消滅する。
4.24 牛乳と水のように、意と気の両者は混合して同一作用のものになる。気が動く場所(チャクラ)に意のはたらきがあり、意のはたらきのある場所(チャクラ)に気の動きがある。
4.25 両者の一方が消えれば他方も消える。一方が動き出せば、他方もはたらき出す。両者がはたらきを止めない限り、感官は、その対象に向ってはたらく。だから、両者のはたらきが無くなった時に、解脱の境地は成立する。
4.28 意が不動になれば、意が不動になり、精液も不動(不消耗)になる。〔精力の素である〕精液が不動となれば身体の不動性(強壮)である精力が現れてくる。
ここで佐保田氏によって用いられている「熏習」という言葉は、ヨーガスートラでも出てきた「ヴァーサナー」です。
参考記事:ヨーガスートラ解説 4.7-4.8 〜行為と結果〜
参考記事:ヨーガスートラ解説 4.9-4.13 〜時の流れとサンスカーラ〜
いろいろな解釈がありますが、ヴァーサナーは、前世や過去生を含めた過去の行為によって蓄積した潜在的な力であり、それはいずれ「煩悩」として現れることになります。
たまったカルマ(過去の行いによって蓄積し、将来結果をもたらすもの)と同じものであると解釈されることもあります。
用語辞典:ヴァーサナー vāsanā
用語辞典:カルマ karman
これによって、煩悩が起こり、心の動きが生まれてしまうことになります。ハタヨーガの実践によって、このようなカルマの根をも絶ってしまうのであると4.12節で述べられています。
4.24節以降では、プラーナが動けば心も動く、という考え方が引き続き示されており、ここでは気の動くセンターでもありすなわち心のはたらきのセンターでもあるチャクラについて示されています。
また精液の話がでてきますが、煩悩がなくなり心が不動になれば、精液も不動になって精力が維持されるということでしょう。こうして維持された精力は、より高次のはたらきを行うための力へと変換されると言われます。
ラヤとは
4.29 諸感官の主は意、意の主は気、気の主はラヤ(意のはたらきの消滅)である。そして、ラヤはナーダに依存する。
4.30 気と意のはたらきの消滅であるラヤは解脱と名づけられるべきである。但し、他の学説においては、そうよぶべきではないとされる。意と気のラヤ(消滅)の際には一種名状し難い快感が現れる。
4.31 ヨーギーのイキの出入がとだえ、対境の知覚が止まり、身体が不動で、こころも動かなくなったラヤ状態はすべてにうち克つ。
4.34 ひとびとはラヤ、ラヤというが、ラヤの特徴はどんなものか? ラヤとは潜在記憶が再現しないことから来る、思念対象の忘却ということである。
ラヤは睡眠と何が違うのか?というところから、「他の学説においては〜」といった議論が起こることになったようです。
ヨーガスートラなどでも、瞑想が深まった状態について、睡眠と何が異なるのかという話は出てきます。
ここでは、睡眠とは異なり「一種名状し難い快感が現れる」と述べられています。
ラヤヨーガというヨーガも存在するようですが、いろいろなものがあるようで、クンダリニーヨーガと同じものを指す場合もあるし、全く別のラヤヨーガもあるようです。
ラヤの特徴として、ヴァーサナーが再現しない状態であると示されています。また、ラヤはプラーナの主であるとも述べられており、心の働きを生み出す原因を完全に制御できた状態が示されています。
こうなれば、どんな対象を知覚したとしても、心を乱されることがなくなるということでしょう。
ヨーガのゴールに関する表現のまとめ
いろいろな表現が用いられているので混乱しそうですが、すべてはゴールに至った者がどんな状態であるかを描いていると思われます。
まとめてみると、以下のような流れで変化が訪れるようです。
- 1)アーサナ・クンバカ・ムドラーなど種々の行を修める
- 2)クンダリニーが目ざめ、スシュムナー気道を浄化する
- 3)スシュムナー気道にプラーナが流れるようになる(各チャクラにもプラーナの流れが起こる)
- 4)プラーナの動き・心の動きを自在に止めることもできるようになる
これらを見ていくと、手法は身体的なものが多く用いられますが、たしかに目指しているところはヨーガスートラが示したラージャヨーガのゴールと同じように見えます。
このあと、さらにいくつかのムドラーなどの行法が説明されます。
(次)ハタヨーガプラディーピカー概説 4.35-4.68 〜ムドラーと三昧〜
(前)ハタヨーガプラディーピカー概説 3.125-3.129 〜ラージャヨーガへ〜
参考文献
「サンスクリット原典 翻訳・講読 ハタヨーガ・プラディーピカー」菅原誠 (著)
「Asana Pranayama Mudra Bandha 英語版」Swami Satyananda Saraswati (著)