ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 4.31
तदा सर्वावरणमलापेतस्य ज्ञानस्यानन्त्याज्ज्ञेयमल्पम्॥३१॥
tadā sarva-āvaraṇa-malāpetasya jñānasya-ānantyāt jñeyamalpam ॥31॥
(読み)タダー サルヴァーヴァラナマラーペータスヤ ンニャーナスヤーナンティヤート ンネーヤマルパン
(訳)覆いと不純を取り除かれた知は無限であり、さらに知られるべきものはほとんどない。
[SS]: Then all the coverings and impurities of knowledge are totally removed. Because of the infinity of this knowledge, what remains to be known is almost nothing.
[SS訳]: そのとき、知を隠していた全ての覆いと不純が取り除かれる。その知は無限であり、さらに知られるべきものはほとんどない。
[SV]: Then knowledge, bereft of covering and impurities, becoming infinite, the knowable becomes small.
[SV訳]: 覆いと不純を取り除かれた知は無限となり、知られるべきものはほとんどなくなる。
Sutra 4.32
ततः कृतार्थानां परिणामक्रमसमाप्तिर्गुणानाम्॥३२॥
tataḥ kr̥tārthānaṁ pariṇāma-krama-samāptir-guṇānām ॥32॥
(読み)タタハ クルタールターナン パリナーマクラマサマープティル グナーナーン
(訳)そのときグナは目的を果たしたため、その転変の流れを終える。
[SS]: Then the gunas terminate their sequence of transformations because they have fulfilled their purpose.
[SS訳]: そのときグナは目的を果たしたため、その転変の流れを終える。
[SV]: Then are finished the successive transformations of the qualities, they having attained the end.
[SV訳]: そのとき特質(グナ)は連続した転変を止め、終息を得る。
Sutra 4.33
क्षणप्रतियोगी परिणामापरान्तनिग्रार्ह्यः क्रमः॥३३॥
kṣaṇa-pratiyogī pariṇāma-aparānta nirgrāhyaḥ kramaḥ ॥33॥
(読み)クシャナプラティヨーギー パリナーマーパラーンタ ニルグラーヒヤハ クラマハ
(訳)時の流れによる変化は刹那の間(現在)に存在し、その連続性は、転変の終わりにおいて認識される。
[SS]: The sequence [referred to above] means an uninterrupted succession of moments which can be recognized at the end of their transformations.
[SS訳]: その(前節で述べられた)流れは、絶え間ない不可分の刹那の連続である。それは転変の終わりにおいてはじめて認識することができる。
[SV]: The changes that exist in relation to moments, and which are perceived at the other end (at the end of a series) are succession.
[SV訳]: 変化は刹那の間に存在し、その連続性は、転変の終わりにおいて認識される。
Sutra 4.34
पुरुषार्थशून्यानां गुणानां प्रतिप्रसवः कैवल्यं स्वरूपप्रतिष्ठा वा चितिशक्तिरिति॥३४॥
puruṣa-artha-śūnyānāṁ guṇānāṁ-pratiprasavaḥ kaivalyaṁ svarūpa-pratiṣṭhā vā citiśaktiriti ॥34॥
(読み)プルシャールタシューニャーナーン グナーナーンプラティプラサヴァハ カイヴァリヤン スヴァルーパプラティシュター ヴァー チティシャクティリティ
(訳)かくして、無上なる独存が成り、グナはもはやプルシャに仕える目的を持たず、元の状態(変化が止まった・非顕現の状態)へと還入される。あるいは、純粋な意識の力が、その本来の姿に帰着するとも言える。
[SS]: Thus, the supreme state of Independence manifests while the gunas reabsorb themselves into Prakriti, having no more purpose to serve the Purusha. Or to look from another angle, the power of pure consciousness settles in its own pure nature.
[SS訳]: かくして、至上なる独存の状態は顕現し、グナはもはやプルシャに仕える目的を持たず、プラクリティへと還入される。他の視点からみれば、純粋な意識の力が、その本来の姿に帰着するとも言える。
[SV]: The resolution in the inverse order of the qualities, bereft of any motive of action for the Purusa, is Kaivalya, or it is the establishment of the power of knowledge in its own nature.
[SV訳]: プルシャに対する全ての行為の動機を失った特質(グナ)の逆方向への(元の状態への)流れは、カイヴァリヤ(独存)をもたらす。これは、本来備わっている知の力の支配とも言える。
解説・考察
ヨーガスートラ最後の4節、ヨーガのゴールが改めて描かれます。
世界を「真我」とそれに経験を与える「自然界」に分けて描いた、ヨーガスートラの二元論の世界が終わりを迎えます。
ダルマメーガ・サマーディに至った者には「覆い」と「不純」が取り除かれた無限の知が現れるといいます。その知は全ての人に「元々備わっていて」隠されていただけということです。
その知は無限であり、それ以外に知るべきことは「ほとんどない」と述べられています。
ほとんどない?というのがちょっとひっかかるので、これについて考えてみます。
ここでalmost nothingやsmallと訳されている「alpa」という言葉の意味を調べてみると、little, few, unimportantなどという訳がでてきます。
unimportant, insignificantという訳を採用し、「本来持っている無限の知に比べれば、取るに足らないものである」と解釈している訳者もいて、これもありかもしれません。
あるいは、無限の知に対して、それ以外の知は有限なのだ、無限に比べれば限りなく少ない、と解釈する訳者もいるようです。たしかに、たとえば宇宙のことなどを調べ始めると、研究してもしてもキリがないのでは、人の一生はなんて短いのだと絶望してしまうことがありますが、学ぶべきことは多いように見えても必ず有限なので、元々持っている無限の知に比べればたいしたことはない、という解釈です。
あるいはシンプルに、もうちょっとでヨーガスートラの旅は終わるよ、ということを示しているのかもしれません。
2.18〜2.22節で示されたように、自然界はプルシャに経験と解脱を与えるためだけに存在すると定義されるので、解脱したプルシャにとってはもう自然界は役割を終え、自然界を構成していた要素(グナ)は元の状態に戻っていくと説明されます。
≫ヨーガスートラ解説 2.18-2.22 〜観るものと観られるもの〜
もともと、3つのグナがアンバランスになって変化が生まれたために自然界が顕現したので、元の状態に戻ったときはその変化が止まり、非顕現の状態にもどるといいます(科学的に考えると、ビッグバンの前のような状態)。
4.33節では、時間の連続性について述べられています。
時間という概念は、4.12節などで述べられたように、事物の変化に気づいたときに心が生み出します。
たとえば「1日」という時間の概念も、太陽が昇って没むという変化に気づいたために生まれたもので、もし地球が回るスピードが変わったら「1日」も変化するでしょう。「1日」というのも単なる言葉であって「尋(ヴィカルパ・論理性)」による産物であり、「言葉による錯覚」を引き起こす原因となります。
≫ヨーガスートラ解説 1.9-1.11 〜「言葉による錯覚」「睡眠」「記憶」とは〜
≫ヨーガスートラ解説 1.42-1.43 〜有尋三昧と無尋三昧〜
そして全ての変化が止まったとき、時間の概念も止まるということになります。しかしそこには、記憶として過去が存在し、非顕現の状態として未来が存在しているため、現在という瞬間に過去・未来の全ての知が存在していることになるといいます。
その全ての知が「現在」に存在している状態は、時間が流れているときには成り立たず、止まったときにはじめて成り立ちます。
宇宙の歴史と照らし合わせてみると、ビッグバンが起こったために事物が絶え間ない変化を始め、時間という概念が動き出したわけですが、ビッグバン以前の状態はまさに上記のような「止まった」状態であり、かつ「非顕現」ではありますが「未来の種を全て含んでいた」ということになります。
「自然界の変化」が「時」という概念を生み出しているので、自然界から自由になった者は時からも自由であり、これがカイヴァリヤ(独存)であり、解脱した魂が至る状態であるといわれます。
カイヴァリヤに至った人を「ジーヴァン・ムクタ(生きながら解脱した人)」と呼びますが、その人はそれ以降、自然界においてどのようにふるまうのか?
体は自然界の一部なので、老いていく肉体に対して執着せず、ただただ楽しむのでしょう(稀に、ババジのように特別な使命を帯びて、変化しない肉体を得た聖者もいるといわれますが)。
そして煩悩に一切邪魔されず、純粋に、やるべきことをやり続けていくのでしょう。
ある人がジーヴァン・ムクタなのかどうかは、自分もジーヴァン・ムクタにならないと分からないといわれます。たしかに、自分の眼が煩悩で曇っていては判断できませんね。
サッチダーナンダ氏の説明によると、ジーヴァン・ムクタが肉体を離れた時、通常は自然界には戻ってこないはずですが、より高位な魂の意志によって、解脱していない他の魂たちを導くために再び肉体を得て戻ってくることもあるといいます。
生まれながらにして完全に悟っているような人もたまにいますが、そういう経緯で生まれているのかもしれません。