ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 2.12 カルマ(業)とは
क्लेशमूलः कर्माशयो दृष्टादृष्टजन्मवेदनीयः॥१२॥
kleśa-mūlaḥ karma-aśayo dr̥ṣṭa-adr̥ṣṭa-janma-vedanīyaḥ ॥12॥
(読み)クレーシャ ムーラハ カルマーシャヨー ドルシュタードルシュタ ジャンマ ヴェーダニーヤハ
(訳)カルマ(行為と結果)の子宮の根はこれらの煩悩の中にあり、カルマは見える生(現世)や見えざる生(未来)の経験をもたらす。
[SS]: The womb of karmas (actions and reactions) has its root in these obstacles, and the karmas bring experiences in the seen [present] or in the unseen [future] births.
[SS訳]: カルマ(行為とその反応)の子宮の根はこれらの障害の中にあり、カルマは見える生(現世)や見えざる生(未来)の経験をもたらす。
[SV]: The Receptacle of works has its root in these pain-bearing obstructions, and their experience is in this visible life, or in the unseen life.
[SV訳]: 行為の貯蔵庫はその根を、苦を伴う障害の中に持ち、それらの経験はこの見える生(現世)や見えざる生(未来)の中にある。
Sutra 2.13 カルマがある限り、輪廻から出られない
सति मूले तद्विपाको जात्यायुर्भोगाः॥१३॥
sati mūle tad-vipāko jāty-āyur-bhogāḥ ॥13॥
(読み)サティ ムーレ タッヴィパーコ ジャティヤーユル ボーガーハ
(訳)その根が存在する限り、行為の結果もまた起こり、様々な生類としての再生があり、それらの生には寿命と経験がある。
[SS]: With the existence of the root, there will be fruits also: namely, the births of different species of life, their life spans and experiences.
[SS訳]: その根が存在する限り、結果もまた起こり、異なる生類としての再生があり、それらの生には寿命と経験がある。
[SV]: The root being there, the fruition comes (in the form of) species, life, and expression of pleasure and pain.
[SV訳]: その根が存在することで、結果は生物種・生・楽と苦の発現を伴って訪れる。
Sutra 2.14 善業と悪業
ते ह्लादपरितापफलाः पुण्यापुण्यहेतुत्वात्॥१४॥
te hlāda paritāpa-phalāḥ puṇya-apuṇya-hetutvāt ॥14॥
(読み)テー フラーダ パリターパ パラーハ プンニャープンニャ ヘトゥトヴァートゥ
(訳)カルマは、善業によって楽を、悪業によって苦を、結果としてもたらす。
[SS]: The karmas bear fruits of pleasure and pain caused by merit and demerit.
[SS訳]: カルマは、善業によって楽を、悪業によって苦を、結果としてもたらす。
[SV]: They bear fruit as pleasure or pain, caused by virtue or vice.
[SV訳]: それらは、徳と悪徳によって生じる楽と苦を、結果としてもたらす。
Sutra 2.15 全ては苦である
परिणामतापसंस्कारदुःखैर्गुणवृत्तिविरोधाच्च दुःखमेव सर्वं विवेकिनः॥१५॥
pariṇāma tāpa saṁskāra duḥkhaiḥ guṇa-vr̥tti-virodhācca duḥkham-eva sarvaṁ vivekinaḥ ॥15॥
(読み)パリナーマ ターパ サンスカーラ ドゥッカイヒ グナ ヴルッティ ヴィローダーッチャ ドゥッカムエーヴァ サルヴァン ヴィヴェーキナハ
(訳)得たものを失う不安や恐怖・結果として心に残り新たな欲を生み出す印象(サンスカーラ)・心を左右する3つのグナの持続的な不均衡を鑑みるに、識別ある人にとっては、全てが苦であることは明らかである。
[SS]: To one of discrimination, everything is painful indeed, due to its consequences: the anxiety and fear over losing what is gained; the resulting impressions left in the mind to create renewed cravings; and the constant conflict among the three gunas, which control the mind.
[SS訳]: 得たものを失う不安や恐怖・結果として心に残り新たな欲を生み出す印象(サンスカーラ)・心を左右する3つのグナの持続的な不均衡を鑑みるに、識別ある人にとっては、全てが苦であることは明らかである。
[SV]: To the discriminating, all is, as it were, painful on account of everything bringing pain, either in the consequences, or in apprehension, or in attitude caused by impressions, also on account of the counter action of qualities.
[SV訳]: 識別ある人にとっては、結果・不安・印象によって生じる思考・そしてまた自性(グナ・世界の構成物)の反作用、全てが苦を伴うという理由により、いわば全てが苦である。
解説・考察
カルマ(業・行)という言葉は、「前世のカルマによって私は今、罰を受けている…」とかいう使われ方でたまに空想作品などでも用いられますが、「行為」「行為の結果」、どちらも指す言葉です。
簡単にまとめると、「行為を行った場合、それに伴う結果は必ず訪れるという世界のルールがある」ということです。
そしてカルマを生み出し続ける限りその人は再生してしまう(人間ではない生物になってしまうかも)ので、輪廻から出られません。輪廻から解脱するのがゴールなので、カルマを生み出さないようにする必要がありますが、そのカルマを生みだす根は、前節までで述べられてきた数々の煩悩にあると示されます。
「徳を積むと来世で報われる」といった話は日本人にも馴染みのある考え方で、2.14節ではその話が述べられています。
しかし2.15節に示されるように、善業でもたらされる「楽」と思われていたことも、得たものを失う恐怖→執着などの煩悩を伴ってしまい、実は全て苦であるとされます。
ということは「善業」と思っていたことも含めて、カルマを生み出すものは全て行わないようにしていく必要があります。
ではなにをしたらいいのか?カルマと無関係の行為とはどういうものなのか?
具体的な方法として、アシュターンガヨーガ(8支則・8階梯のヨーガ)などの方法が少し後に示されますが、まずはこの後の節では「苦」に関する説明や、「真我」と「世界」についての説明が示されていきます。
≫ヨーガスートラ解説 2.16-2.17
≪ヨーガスートラ解説 2.10-2.11