ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 2.23 結合の必要性
स्वस्वामिशक्त्योः स्वरूपोपलब्धिहेतुः संयोगः॥२३॥
svasvāmi-śaktyoḥ svarūp-oplabdhi-hetuḥ saṁyogaḥ ॥23॥
(読み)スヴァスヴァーミ シャクティヨーホ スヴァルーポープラブディ ヘートゥフ サンヨーガハ
(訳)所有するもの(プルシャ・真我・魂)と所有されるもの(プラクリティ・自然界)の結合が、双方の本来の状態と力に関する認識を引き起こす。
[SS]: The union of Owner (Purusha) and owned (Prakiti) causes the recognition of the nature and powers of them both.
[SS訳]: 所有するもの(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、双方の本来の状態と力に関する認識を引き起こす。
[SV]: Junction is the cause of the realisation of the nature of both the powers, the experienced and its Lord.
[SV訳]: 経験を得たものと、その支配者の結合が、双方の力の本来の状態に関する認識を引き起こす。
Sutra 2.24 結合の原因
तस्य हेतुरविद्या॥२४॥
tasya hetur-avidyā ॥24॥
(読み)タスャ ヘートゥラヴィディヤー
(訳)その結合の原因となるのは、無知である。
[SS]: The cause of this union is ignorance.
[SS訳]: その結合の原因となるのは、無知である。
[SV]: Ignorance is its cause.
[SV訳]: 無知がその原因である。
Sutra 2.25 結合がなくなったとき
तदभावात् संयोगाभावो हानं तद् दृशेः कैवल्यम्॥२५॥
tad-abhābāt-saṁyoga-abhāvo hānaṁ taddr̥śeḥ kaivalyam ॥25॥
(読み)タダバーバーッ サンヨーガービャーヴォー ハーナン タッドルシェーヘ カイヴァリャン
(訳)無知がなくなれば、もはやこのような結合は起こらない。これが観るもの(プルシャ)の独立(独存)である。
[SS]: Without this ignorance, no such union occurs. This is the independence of the Seer.
[SS訳]: 無知がなくなれば、もはやこのような結合は起こらない。これが観るものの独立である。
[SV]: There being absence of that (ignorance) there is absence of junction, which is the thingto-be-avoided; that is the independence of the seer.
[SV訳]: 無知がなくなれば、避けるべき結合もなくなる。それが観るものの独立である。
Sutra 2.26 無知を破壊する方法
विवेकख्यातिरविप्लवा हानोपायः॥२६॥
viveka-khyātir-aviplavā hānopāyaḥ ॥26॥
(読み)ヴィヴェーカキャーティヒ アヴィプラヴァー ハーノーパーヤハ
(訳)絶え間ない識別が、無知を破壊する方法である。
[SS]: Uninterrupted discriminative discernment is the method for its removal.
[SS訳]: 絶え間ない識別がこれを取り除く方法である。
[SV]: The means of destruction of ignorance is unbroken practice of discrimination.
[SV訳]: 無知の破壊の方法は、絶え間ない識別の実践である。
Sutra 2.27 7層の知
तस्य सप्तधा प्रान्तभूमिः प्रज्ञा॥२७॥
tasya saptadhā prānta-bhūmiḥ prajña ॥27॥
(読み)タスャ サプタダー プラーンタ ブーミヒ プランニャー
(訳)識別知を得たものの最高位の知は、7層に分かれる。(識別知を得たものは、1:これ以上さらに何かを知ろうとする欲求、2:何かを遠ざけようとする欲求、3:新しいものを得ようとする欲求、4:何かしたいという欲求、5:悲しみ、6:恐怖、7:妄想、の7つが終息するのを経験する。)
[SS]: One’s wisdom in the final stage is sevenfold. [One experiences the end of 1) desire to know anything more; 2) desire to stay away from any thing; 3) desire to gain anything new; 4) desire to do anything; 5) sorrow; 6) fear; 7) delusion.]
[SS訳]: 知の最終段階は7層に分かれる。(識別知を得たものは、1:これ以上さらに何かを知ろうとする欲求、2:何かを遠ざけようとする欲求、3:新しいものを得ようとする欲求、4:何かしたいという欲求、5:悲しみ、6:恐怖、7)妄想、の7つが終息するのを経験する。)
[SV]: His knowledge is of the sevenfold highest ground.
[SV訳]: 彼の最高位の知は、7層に分かれる。
解説・考察
そもそもなぜ真我と自然界というものが存在し、それらを混同(結合)して「自分とは何か」ということを見失うようなシナリオが描かれたのか。
2.23節では、その必要性が示されています。
真我(魂)はカルマによって、自分が純粋で不滅であることを見失っています。そこで自分自身のことを知るために、鏡が必要だったのでしょう。
その鏡にあたるのが「心」ですが、これは常に変化している自然界の一部であるので、自然界と結合することによって鏡を見ることができますが、心が常に波立っている限り、その本来の姿は歪んだ姿でしか見えません。
その歪んだ姿を本来の自分だと思いこんでいるうちは、解脱に至ることはできません。(それどころか、私達の多くはその鏡自体を自分自身だと思ったりしてしまっています)
そして本来の自分自身を知ることで、無知が破壊され、もはや鏡も必要なくなり、結合が終わります。そのとき、その魂にとっては自然界はもはや不要のものとして破壊されています(2.22節)。
自分自身を知るには、常に変化していく自然界の一部である鏡(心)を絶え間なく制御するために、その変化に気づくための「識別」も絶え間なく続けられる必要があります。後の節で瞑想(ディヤーナ)の説明がされますが、そこでも同じように「対象への絶え間ない認識」と表現されます。集中というものは途切れてしまうものですが、それが絶え間なく続けられるようになった状態が瞑想であると定義されます。
瞑想によって、対象に関する本質的な知が得られます。
識別知を得たものは、それ以上なにかを知る必要もなくなり、欲求も消え去っていきます。
≫ヨーガスートラ解説 2.28-2.32
≪ヨーガスートラ解説 2.18-2.22