ヨーガスートラを私なりに読み進めていくシリーズ。
英訳出典:http://yogasutrastudy.info/
サンスクリット語辞書:http://spokensanskrit.org/
訳者の略称は下記の通りです。
[SS]: Swami Satchidananda
[SV]: Swami Vivekananda
Sutra 3.51(3.50)
तद्वैराग्यादपि दोषबीजक्षये कैवल्यम्॥५०॥
tad-vairāgyād-api doṣa-bīja-kṣaye kaivalyam ॥50॥
(読み)タドヴァイラーギャーダピ ドーシャビージャクシャイェー カイヴァリヤン
(訳)これら(すべてのシッディ・超能力)に対してすら無執着であることによって、束縛の種は破壊され、カイヴァリヤ(独存)の状態が訪れる。
[SS]: By non-attachment even to that [all these siddhis]. The seed of bondage is destroyed and thus follows Kailvalya (Independence).
[SS訳]: これら(すべてのシッディ・超能力)に対してすら無執着であることによって、束縛の種は破壊され、それに従ってカイヴァリヤ(独存)の状態が訪れる。
[SV]: By giving up even these comes the destruction of the very seed of evil; he attains Kaivalya.
[SV訳]: これら(すべてのシッディ・超能力)にすら執着しないことによって、悪の種は破壊され、カイヴァリヤ(独存)を得る。
Sutra 3.52(3.51)
स्थान्युपनिमन्त्रणे सङ्गस्मयाकरणं पुनरनिष्टप्रसङ्गात्॥५१॥
sthāny-upa-nimantraṇe saṅga-smaya-akaraṇaṁ punar-aniṣṭa-prasaṅgāt ॥51॥
(読み)スターニユパ ニマントラネー サンガスマヤーカラナン プナラニシュタ プラサンガート
(訳)ヨーギは、神々からの誘いを受けたとしても、これを受容することなく、またそれによって慢心の笑みすら浮かべるべきではない。再び望まざる状態に引き戻される可能性があるからである。
[SS]: The Yogi should neither accept nor smile with pride at the admiration of even the celestial beings, as there is the possibility of his getting caught again in the undesirable.
[SS訳]: ヨーギは、神々からの称賛といえども受容することなく、また慢心の笑みすら浮かべるべきではない。再び望まざる状態に引き戻される可能性があるからである。
[SV]: The Yogi should not feel allured or flattered by the overtures of celestial beings, for fear of evil again.
[SV訳]: ヨーギは、再び悪へと戻ることを避けるため、神々からの誘いといえども魅力的に思ったり慢心したりしてはならない。
Sutra 3.53(3.52)
क्षणतत्क्रमयोः संयमाद्विवेकजं ज्ञानम्॥५२॥
kṣaṇa-tat-kramayoḥ saṁyamāt vivekajaṁ-jñānam ॥52॥
(読み)クシャナタットクラマヨーホ サンヤマート ヴィヴェーカジャン ンニャーナン
(訳)時間の中の一片(刹那)にサンヤマを行い、それを繰り返すことによって、識別知が得られる。
[SS]: By samyama on single moments in sequence comes discriminative knowledge.
[SS訳]: 連続の中の刹那にサンヤマを行うことによって、識別知が得られる。
[SV]: By making Samyama on a particle of time and its multiples comes discrimination.
[SV訳]: 時間の中の一片にサンヤマを行い、それを繰り返すことによって、識別知が得られる。
Sutra 3.54(3.53)
जातिलक्षणदेशैरन्यतानवच्छेदात् तुल्ययोस्ततः प्रतिपत्तिः॥५३॥
jāti-lakṣaṇa-deśaiḥ anyatā-anavacchedāt tulyayoḥ tataḥ pratipattiḥ ॥53॥
(読み)ジャーティ ラクシャナ デーシャイヒ アニャターナヴァッチェーダート トュリャヨーホ タタハ プラティパッティヒ
(訳)これによって、種・特徴・位置などが酷似していて識別できなかったものが、識別できるようになる。
[SS]: Thus, the indistinguishable differences between objects that are alike in species, characteristics marks and positions become distinguishable.
[SS訳]: これによって、種・特徴・位置などが酷似していて識別できなかったものが、識別できるようになる。
[SV]: Those which cannot be differentiated by species, sign and place, even they will be discriminated by the above Samyama.
[SV訳]: 種・特徴・位置などが区別できなかったものさえも、より高度なサンヤマによって識別できるようになる。
Sutra 3.55(3.54)
तारकं सर्वविषयं सर्वथाविषयमक्रमं चेति विवेकजं ज्ञानम्॥५४॥
tārakaṁ sarva-viṣayaṁ sarvathā-viṣayam-akramaṁ-ceti vivekajaṁ jñānam ॥54॥
(読み)ターラカン サルヴァヴィシャヤン サルヴァターヴィシャヤマクラマン チェティ ヴィヴェーカジャン ンニャーナン
(訳)この識別知は、全ての状態にある全ての対象を同時に理解する、解脱をもたらす直観知である。
[SS]: The discriminative knowledge that simultaneously comprehends all objects in all conditions is the intuitive knowledge which brings liberation.
[SS訳]: この識別知は、全ての状態にある全ての対象を同時に理解する、解脱をもたらす直観知である。
[SV]: The saving knowledge is that knowledge of discrimination which covers all objects, all means.
[SV訳]: この蓄えられた知は、全ての対象・全ての手段をカバーする識別知である。
Sutra 3.56(3.55)
सत्त्वपुरुषयोः शुद्धिसाम्ये कैवल्यमिति॥५५॥
sattva-puruṣayoḥ śuddhisāmye kaivalyam ॥55॥
(読み)サットヴァプルシャヨーホ シュッディサームィェ カイヴァリヤン
(訳)穏やかな心が真我に等しい純粋性を得た時、カイヴァリヤ(独存)が訪れる。
[SS]: When the tranquil mind attains purity equal to that of the Self, there is Absoluteness.
[SS訳]: 穏やかな心が真我に等しい純粋性を得た時、独存がある。
[SV]: By the similarity of purity between the Sattva and the Purusa comes Kaivalya.
[SV訳]: サットヴァとプルシャの純粋性が等しくなったとき、カイヴァリヤ(独存)が訪れる。
解説・考察
ここまで述べられてきた、あやしいシッディ(超能力)の数々。
私も最初に読んだときはヨーガスートラがあやしい本に思えてしまった第3章でしたが、3.51節のスートラで納得できました。
これまで述べられてきたことは、世俗的な欲求に執着しないようにするための試練のようなものだったのでしょう。
あるいは、様々な宗教や哲学が存在するなかで、ヨーガ人口を増やそうとする狙いもあったのかもしれません。現代では一笑に付されそうな超能力も、当時の人々は本気で魅力を感じていた可能性は大いにあります。
現代ヨガも、「結果を求めない」で行うのが本当は良いのですが、とっかかりは「やせたい」「体をやわらかくした」といった具体的な欲求から始める人がほとんどです。それでいいのだと思います。やっているうちにヨーガの本質や、自分自身の本質に気づいていくことができれば。
では、超能力はすべて悪なのか?という問いに対してのサッチダーナンダ氏の解説がとても良いと思ったので引用します。
「追い求めているときは悪であり、それが向こうから来るときは善である。シッディに来させよ。」自分の煩悩のためでなく、正しいことに使う、心の準備ができたとき、向こうから「お手伝いさせてくれませんか」とやってくるといいます。
ヨーガの道は一方通行ではなく、気を抜けば一気にまた元に戻ってしまう危険性を秘めています。3.52節はそれを喚起しています。修行が進んでいくと、超能力や神々からの誘いなど魅力的なものがたくさん訪れるようですが、それらに気を取られて煩悩が再び湧き出てしまったら、近づいていたはずのゴールは一気に遠ざかってしまうということです。
全ての煩悩の元であった「アヴィディヤー(無知)」を破壊するのは、「ヴィヴェーカ(識別知)」であると2.26節で述べられました。そして識別知が得られたとき、プルシャの独存があると2.25節でもすでに述べられているとおりで、3.53〜3.56節では同じことを逆の順番で説明しています。
「真我に等しい純粋性を得た心」は、波立ちも歪みもなく、真我の姿を鏡のように映し出すことでしょう。
≫ヨーガスートラ解説 4.1-4.3
≪ヨーガスートラ解説 3.39-3.50(3.38-3.49)
(※)3.22節に関しては、訳者によっては抜けているため、このあとの節番号がひとつずつズレている訳本もあります。この節が後世に付け加えられたものとされているのか、詳細は分かっていないようです。そのため、ヨーガスートラは全体で195節とする場合と、196節とする場合があります。ここでは3.22節は存在するとしてカウントした節番号をメインに使い、存在しないとした場合の節番号をカッコで示すことにします。