インドで伝統的なヨーガを学んでいる人にとって、「師匠は必要である」としているのが主流な考え方のようです。
現代人にとっては「メンター」などとも言われていますが、良い師匠に出会えて花開く人もいれば、決まった師匠を持たずに自分で道を切り開いている人もいます。
私にも決まった師匠はいませんし、レッスンを受けに来ていただいている方に対しても、人それぞれのやり方でいいんじゃないですかね〜という感じで接しています。
実際のところ、ヨーガに限らず、生きていく上で師匠は必要なのか?ということを考えてみます。
「顕教」と「密教」
多くの教えにおいて、「顕教」と「密教」にあたるものがあります。
顕教として教えられることは、教典や教科書で伝えられるような内容です。
しかし実際に道を極めていくためには、師匠から直接教わること、すなわち「密教」的な要素が必要であるというのが、「師匠は必要である」とされている根拠のひとつです。
「密教」というとなんだか怪しい秘儀のように聞こえますが、「密教:万人向けではない、人それぞれに合った教え」というふうに捉えておくと良いと思います。
「知識」と「コツ」
たとえば受験勉強を例にとると、合格するために必要な「知識」は教科書や参考書にすべて書かれています。しかし実際に勉強を進めるためには、そこに書かれていない「コツ」が必要になります。
どんな「コツ」が必要なのかは、人によって全く異なります。集中力が足りない人には、集中力を高めるコツが必要ですし、集中力があっても無駄な回り道ばかりの勉強法をしている人には、要点をまとめたり順序立てて勉強していくコツが必要になります。
ヨガのポーズに関しても、文字や写真の情報から得た知識を元に、なんとなく真似をすることはできますが、人それぞれ難しいと思うポーズや効果が感じられるポーズなどはかなり異なるので、それらを怪我しないように確かな効果が得られるように行うには、人それぞれに合ったコツが必要になるわけです。
師匠が必要かどうかは、「コツ」をつかめるかどうかが鍵になると思います。
師匠などいなくても、自力でコツをつかめてしまう人もいますが、多くの人はそうもいかないので、「師匠が必要である」というのが多数派なのでしょう。
自分の直感にしたがう
では自力でコツをつかめてしまう人はひとにぎりの天才だけなのかというと、そうでもないと思います。
人にはそれぞれ、自分の中に「導き手」的なものがいるのだと思います。外から得た知識とは違って、「直感」「智慧」といったものを与えてくれるものです。
どんな師匠も聖典も、良いヒントを与えてはくれますが、答えは与えてくれません。目的は、師匠を得ることではなく、答え(今やるべきこと)を自分の中に探すことです。
「自分と相談する」という表現がよく用いられますが、そんな感じです。ただ、その導き手の声を聴くためには、雑念があってはダメなのです。
人と比べたり、執着したりする心があると、とたんに導き手は隠れてしまい、「あの人に勝ちたい!」「金持ちになりたい!」といったような大きな声を発している雑念のほうが正しいと思ってしまいがちです。
その導き手が、コツを直接教えてくれる場合もあれば、いま必要な師匠が現れるように導いてくれることもあるということでしょう。それは、人それぞれ置かれた環境や、雑念具合などによって異なるのだと思います。
「雑念を払う」というのは、言葉で言うのは簡単ですが、なかなか難しいことです。そこに至るまでに、いろいろな経験が必要かもしれません。失敗も、間違った情報もすべて、ヒントになります。師匠は人間とは限りません。
「良い師匠は、弟子の準備ができたら現れる」というのはインドにも中国にも、ことわざとして伝わっているようです。
師匠を求めてさまよい歩くよりも、なるべく雑念を払い、なるべく純粋な心で待つことが大切だと思います。