江戸中期の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴(はくいん えかく 1686-1769)の教えの中には、現代の生き方にも応用できるものが多く、ヨーガや気功などとも通じる健康法・瞑想法も伝えられています。
「天台は宮家、真言は公家、禅は武家、浄土は平民」などと言われるように、鎌倉時代に伝えられた禅宗は主に武士の間で広まりましたが、白隠禅師は禅を一般民衆にも広める役割を果たし、特に臨済宗では中興の祖として讃えられています。
今回は、その教えがシンプルにまとめられた「坐禅和讃(座禅和讃・ざぜんわさん)」を簡単に紹介します。現代でも臨済宗の坐禅で唱えられており、もともとルーツは同じところにあるヨーガの教えとも共通するものがあります。
真理は同じ、そこに至るための表現が異なるだけです。サンスクリット語で書かれた難解なヨーガの古典よりも、坐禅和讃のほうが日本人にはわかりやすいかもしれません。また、七五調でなじみやすいリズムなので、とても読みやすく覚えやすいです。
この記事の目次
白隠禅師坐禅和讃 全文・読み
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うにことならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆このうちに帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
私達は本来仏であるが、それを忘れている
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
私達は悩んだり迷ったり、愚かなこともしたりするようにみえます。仏のように、素敵な存在になりたいと願うこともありますが、じつはもともと私達は仏なのであると言われます。
氷は一見固いものではありますが、もともとは水です。溶けてしまえば、それがわかります。
このように、世の中の物事や自分自身についてさえも、なにか余計な情報や力によって覆い隠されて、本質が見えなくなっているのです。
足るを知る
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
私達は、自分自身のこともよくわからないのに、外へ外へとなにかを求めに行ったり、余計な欲望に振り回されたりします。
本当はもともと満ち足りているはずなのに、それに気づくことができないと、迷妄の世界をさまよい続けることになります。
アシュタンガヨーガのニヤマ(勧戒・個人的規範)の中にも、サントーシャ(知足)があります。
迷いのループは、自分が生み出している
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
仏教では、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生するループから解脱することが目的とされますが、そのループを生み出しているのは自分自身の妄想や執念から生まれる行い(業・カルマ)とされます。
それを繰り返していては、いつまでも解脱に到ることはできません。
同様の教えがヨーガスートラの中にもあります。
ただひたすらに坐禅すべし
それ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
ヨーガでも、様々な宗教でも、真理と呼ばれるものは言葉で表すことはできないと言われます。それは元々そなわっている智であり、それを覆い隠しているものを払っていくことで自ら気づくしかないのです。
摩訶衍は大乗仏教を表し、衆生を解脱に導く教えです。
禅宗ではそのために、ただひたすらに坐ることが修行の根本とされます。全ての善行を表す「六波羅蜜」は下記のように定義されています。
(1) 施しという完全な徳 (布施波羅蜜)
(2) 戒律を守るという完全な徳 (持戒波羅蜜)
(3) 忍耐という完全な徳 (忍辱波羅蜜)
(4) 努力を行うという完全な徳 (精進波羅蜜)
(5) 精神統一という完全な徳 (禅定波羅蜜)
(6) 仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳 (般若波羅蜜)出典:コトバンク
これら全ての善行も、坐禅へと帰すると言います。
ただ、長く坐っているのはなかなか難しいことです。人それぞれ雑念を払う必要があったり、股関節を柔らかくしたり体幹を強くしたりする必要があったりするので、ヨーガではいろいろな瞑想法・呼吸法やアーサナ(姿勢・ポーズ)が生み出されてきました。
たとえ一時でも心落ち着けて坐れば、そこは浄土
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
罪人も救われるのか否か、ということは仏教の各宗派の中でも考え方の分かれるところのようです。ここでは、一時でも心落ち着けて坐ることができれば、無量の罪もほろぶと言われ、多くの民衆へ向けての教えであることが伺えます。
心落ち着けて坐れば、冒頭にも述べられたように人は本来仏であり、いまいる場所こそが目指していた場所、浄土であると気づくことができます。
しかし心落ち着けて坐るというのは言葉では簡単ですが、実践するのは難しいもの。ちょっと坐ってみて、ダメそうなら疑って諦めてしまっては、解脱に至ることはできません。
真理は自分の中にあるということを信じて、ただひたすらに坐るということがそれに到達する道であると信じることができれば、この世の福は自ずから得られるということを示しています。
アシュタンガヨーガのヤマ(禁戒・社会的規範)、ニヤマ(勧戒・個人的規範)などにも同様の教えが見られます。
進み始めれば、道はまっすぐな一本道
いわんや自ら回向して 直に自性を証ずれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
現代世界では、たとえば健康法や瞑想法などを調べようと思ったら簡単にたくさんの情報が手に入りますが、情報を得て満足するだけでなく「自ら行う」というのが重要です。
ここで出てくる「自性」という言葉は、捉え方がいくつかあります。
文字通りの意味で「自分を表すもの」と捉える場合、他者との比較をせずに自分を表現するにはどうすれば良いか?と考えていくと、自分を表せるものなどなにもないということに気づき、仏教の基本である「無我」の考え方につながります。
仏教では悟りのことを「見性」と呼んで、これは自分の本来の性質に気づくことであり、ここではすなわち自性に気づいたところでそれは無性であったと気づいた、無我であったと悟った、と読むこともできます。
あるいは、ヨーガのサーンキャ哲学などで用いられるプラクリティ(自然界を構成する要素)を自性と訳すこともあり、この場合は、いままで「自分」だと思い込んでいた「心」や「体」もプラクリティによって生成された自然界の一部であるので、存在しているのは自我意識だけであって自性はすべて無性、幻(マーヤー)である、という不二一元論の考え方に通じるものを感じます。
「我」が存在するかどうかは宗教によって考え方が分かれるところであり、坐禅和讃は仏教の考え方に基づいて「無我」を表しているのかもしれませんが、ここでは明確に示さず、自分で思案せよというところが禅らしさなのかもしれません。
因果一如、行為によって結果が生じるということは、行為を行った瞬間に未来は決まります。つまり、「今、この瞬間を生きよ」という教えです。これはマインドフルネスでもよく用いられます。
今この瞬間には、過去の行い全てが反映されており、そして未来に何が起こるかの種の全てが存在しています。なので、過去に執着することや未来に不安を持つことは、全て雑念です。
悟りの境地とは
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
「無相」とは言葉で表すことができない、心でおしはかることのできないこと。真実(実相)は本来無相であるということがわかれば、どこにいようとも、外へあちこち探し回らなくても、やすらぎは自分の中にあるということです。
「無念」で行われた行為は、謡おうとも舞おうとも、それは自然界を動かしている法(仏法)にのっとって行われた自然な行為となり、また周りの人々を導くことにもなります。
「三昧」はヨーガのゴールとしても出てくる「サマーディ」の音写です。瞑想対象と一体となった状態、あるいは悟りに至った状態です。
≫ヨーガスートラ解説 1.40-1.41 〜三昧(サマーディ・定)とはどんな状態か〜
「無碍」は邪魔するものがなにもない状態、もともと備わっていた智が、いろいろな雑念などによって隠されていただけなのだ、ということを示しているように思えます。
「四智」は下記の4つであると言われます。
一、大円鏡智・・・鏡のようにすべのものをありのままにうつしだす智慧。
二、平等性智・・・普段、私たちは自分の都合でものを差別して見ていますが
それを離れて物事を平等に見る智慧。
三、妙観察智・・・対象について十分に観察をする智慧。
四、成所作智・・・以上のように状況が把握出来たうえでその場でどうすれば
いいか、何を為すべきかがわかる智慧。
(相変わらずMECEではないのでコンサルタントの人は怒りそうですが。)
大円鏡智はヨーガスートラが示すヨーガの姿に近いように思えます。心が波立たない、鏡のような状態にすると、ありのままの真我がそこに映し出されるといいます。
物事をありのまま、平等に、十分に観ることができるようなった上で、「今、何をするべきかがわかる」これが一番重要なところだと思います。
坐禅をして心を落ち着けたところで、ただ坐っているだけでは眠っていたり死んでいたりするのと大して変わりません。そうではなくて、人には必ずなすべきことがあります。
雑念を払うことで、「今なすべきこと」が自分の奥底から湧き上がってきます。
バガヴァッドギーターでもこれらの話と類似して、「無為」と「結果を放擲した行為」の比較など、細かに議論されています。
このように「悟りを開いた」などと呼ばれる自然に生きる状態を、「円明の月」まんまるの月のようであるとたとえています。
このような人が行う行為は、結果を求めたり、それ自体に執着したりするものではなく、「寂滅現前」心落ち着いた状態でただ自然と行われる行為です。
そして、苦しみばかりだと思っていたこの世こそが蓮華国、いわゆる極楽浄土であり、雑念を払いきってみれば自分はそもそも仏だったのだ、ということを「悟る」ということになります。
白隠禅師が伝えた技
禅はそもそも不立文字。真理は言葉では表せないため文字によって教えを伝えることを避けてきたものなので、いわゆる「禅問答」によって、答えのないものを自ら悟るという方法をとり、禅問答をまとめた「公案集」がたくさん伝わっています。
それらに比べると坐禅和讃は、なんともわかりやすく、心に沁みるような文章であると思います。
白隠禅師が伝えた教えの中には、瞑想法や呼吸法など心と体を扱う具体的な技も数多くあるようです。
ヨガの腹式呼吸に近い丹田呼吸法や、瞑想法として軟酥の法や内観の法といったものもあります。