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「わび」の心 〜奥底に存在する禅の精神〜

「わび」の心 〜奥底に存在する禅の精神〜

「シンプルに」「自然に」という心はおそらく、誰にでもある

ヨーガ以外にもいろいろな哲学について研究していますが、「よくもまあこんな複雑なことを考えたなぁ」と思うことがあります。

そんなときは、禅に関する本に戻ってきたり、禅僧の方の話を聴いたりします。

禅の道は「不立文字」、真理は言葉では表すことができないので、できるだけ言葉に頼らず、ただただ経験し直観するべしという考え方です。

余計な情報や装飾をなくし、シンプルにしていくためのヒントがその教えの中にあります。

西洋の哲学にも、インドのヴェーダにも、たくさんのカタカナ哲学用語がでてきて頭がごちゃごちゃになりますが、禅に戻ってくると、そのシンプルさに心が落ち着く感じがします。

インド→中国→日本と渡ってきて、日本人の中で洗練されて現代に存在し、しかも宗教的儀礼的な部分だけでなく日常の思考にも深く根付いている禅の心。インドや中国ではここまで根付かなかったのは、民族的性格や文化的背景などいろいろな理由があるのでしょうけれども、それも「人間を含めた自然」の流れということなのかもしれません。

シンプルになるためには、いままで持っていたものを捨てるということを繰り返す必要があるので、「不安」「躊躇」「執着」などなど人それぞれ雑念が湧きます。これらの雑念も余計なものであり、それらを捨て去るには人それぞれに合ったやり方があります。

なので、ヨーガを選んでもいいし、禅を選んでもいいし、西洋哲学を選んでもいいのでしょう。

西洋文化が流れ込み、豊かなモノに囲まれた生活、他人よりも豊かになりたいという思考など、余計なものに惑わされがちな現代日本人ですが、それでもやはり心の奥底には「シンプル」を求める心があるように感じます。

あるいは、西洋人にも同じようにシンプルを求める心があるのかもしれませんが、周りに余計なものや思考が多すぎるし、歴史的な背景も含めて、それに気づくのが日本人よりも難しいということなのかもしれません。気づくことができたごく一部の人々は、坐禅を好むようになったり、Apple製品をデザインしたりするのでしょう。

(ただ、西洋人も最近の日本人も、椅子生活に慣れすぎていてあぐらがかけない人が多く、股関節を柔軟にするためにも、体を動かすヨガは役に立ちます。)

そんな西洋人に禅の心を伝えようとした鈴木大拙氏の本の中で、「わび」について書かれていたので、引用してみます。

以下、引用部分は「対訳 禅と日本文化 – Zen and Japanese Culture/鈴木大拙」からの引用です。原著は対訳になっているので、本を手に取られた方は、ぜひ英語の文章も読んでみてください。

わびの真意は「貧困(ポヴァティー)」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物──富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること──これがわびを本質的に組成するものである。(p.29)

「豊かさ」を「幸せ」の判断基準としている多くの人々にとっては、すぐには理解できないことでしょう。なぜ貧しいのに、幸せを感じられるのか。

それは事実、「貧困」の信仰。おそらくは日本のような国には極めてふさわしい道である。近代西欧の贅沢品や生活の慰安物が我が国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学体系のたてかたも求めない。神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少くともわれわれのうちのある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。(p.31)

「貧困の信仰」と聞くと、日本人としては「欲しがりません勝つまでは」を連想してしまうかもしれませんが、そのような思想のコントロールとは全く異なります。

ヨーガスートラの記事などでも触れましたが、雑念を捨てるというのは感覚を麻痺させていくのではなく、明晰な気づき(マインドフルネス)が働いている状態で、誰かに依存せず完全に独立した状態で、自ら判断することで雑念を捨て、心を一点に定めていくということです。誰かにコントロールされて、思考が停止していくのではないということです。

明晰に気づきが働いている状態になれれば、自然や環境の変化に気づき、そこに何よりも楽しく価値のあるものがあると感じられるようになるので、その感覚を曇らせてしまうものを捨て去り、「わび」の道を自ら選ぶということなのでしょう。

最近では「派手でもったいぶった」新しい言葉が次々につくられ、「観念の豊富化」をドヤ顔で行っている一部の人々がかりそめの豊かさを手にしていますが、そんな人々の中にも、こういった自然を思索して楽しむ心が隠れて眠っているのではないかと思います。

その隠れた豊かな心に気づければ、余計なものを捨て去る際に雑念が邪魔をすることも少なくなっていくはずです。

参考文献

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