瞑想を深めていくにあたって、それぞれの段階・状態に合った、適切な行法や指導法が用いられるのが良いであろう。
「瞑想のレベル」を測るためには様々な方法が考えられるが、ここではひとつの指標として、ヨーガスートラ(ラージャヨーガ・アシュターンガヨーガ)における、サマーディ(三昧)の段階についてまとめておく。
このページの目次
サマーディを妨げるもの
4つの心の働き
- ヴィタルカ 論証性(尋)→ 粗大な対象(具象)、五感で感じ取れるもの
- ヴィチャーラ 反射(伺)→ 微細な対象(抽象)、「愛」「美」などといった概念
- アーナンダ 歓喜(楽) → 心そのものの純粋な働き、そこには「喜び」だけがあると言われる
- アスミター 自意識(我想)→ 「私」という意識
5つのクレーシャ(障害・煩悩)
- 無知
- 我想(エゴ)
- 執着
- 嫌悪
- 生命欲
サマーディを導くもの
アシュターンガヨーガ(八支則)
- ヤマ(禁戒):アヒンサー(非暴力)・サティヤ(誠実)・アステーヤ(不盗)・ブラフマチャリヤ(梵行)・アパリグラハ(不貪)
- ニヤマ(勧戒):シャウチャー(清浄)・サントーシャ(知足)タパス(熱意・忍耐)・スヴァーディヤーヤ(読誦・聖典の研究)・イーシュヴァラプラニダーナ(神への献身)
- アーサナ(坐法・姿勢)
- プラーナーヤーマ(調気)
- プラティヤーハーラ(制感)
- ダーラナー(集中)
- ディヤーナ(瞑想・静慮)
- サマーディ(三昧)
クリヤーヨーガ
- タパス(熱意・忍耐)
- スヴァーディヤーヤ(読誦・聖典の研究)
- イーシュヴァラプラニダーナ(神への献身)
これらはニヤマにも含まれる。
慈悲喜捨
- 慈(スカー):他人の幸せを喜び
- 悲(ドゥッカ):不幸を憐れみ
- 喜(プンニャ):他人の有徳を欣び
- 捨(アプンニャ):不徳を捨てる
サマーディの分類と段階
ヨーガスートラで述べられているサマーディにはいくつかの分類法と、それぞれの段階がある。
サムプラジュニャータサマーディ(有想三昧・区別有る三昧)とアサムプラジュニャータサマーディ(無想三昧・区別無き三昧)
「サムプラジュニャータサマーディ(有想三昧)」と「アサムプラジュニャータサマーディ(無想三昧)」の段階がある。
サムプラジュニャータサマーディのなかに4つの段階がある。
以下の4つの心の働きそれぞれに、まず完全に気づくことが「有想」三昧の段階であり、それらを手放すことが「無想」三昧の段階である。
- ヴィタルカ 論証性(尋)→ 粗大な対象(具象)、五感で感じ取れるもの
- ヴィチャーラ 反射(伺)→ 微細な対象(抽象)、「愛」「美」などといった概念
- アーナンダ 歓喜(楽) → 心そのものの純粋な働き、そこには「喜び」だけがあると言われる
- アスミター 自意識(我想)→ 「私」という意識
尋・伺・楽・我想をひとつずつ手放していき、アサムプラジュニャータサマーディ(無想三昧)に至ったとき、「我」の意識が無くなり、仏教における「無我」を悟るのと同様な状態となると考えられる。
サビージャサマーディ(有種子三昧)とニルビージャサマーディ(無種子三昧)
前述の心の働きの前半、ヴィタルカ 論証性(尋)とヴィチャーラ 反射(伺)について、気づき(有想)、手放す(無想)それぞれの過程について、ヨーガスートラでは以下のように名前が出てくる。実際は「サマーディ」ではなく「サマーパッティ(定)」という名前が使われている。
- サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)
- ニルヴィタルカ・サマーディ(無尋三昧)
- サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)
- ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)
ヨーガスートラではニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)までの段階をサビージャサマーディ(有種子三昧)と呼んでいる。ここまではまだ、せっかく深めてきたのだがまた元に戻ってしまう原因となる種子が残っている状態である。
ニルヴィチャーラ・サマーディ(無伺三昧)が純粋になると、リタムバラー・プラジュニャー(真理によって満たされた叡智)を得るという。これによって、得られる印象は、他の全ての印象を消す。
ヨーガなどでよく用いられる「印象」という言葉の意味を考えてみる。元の言葉は「サンスカーラ」であり、「行」などとも訳されるが、これは物事が「”そのように”なる力」というような解釈をされる。サンスカーラから逃れない限り、物質は生まれ、肉体はふたたび生まれ、解脱はできないとされる。
そのため最終的にサンスカーラが消え去った状態を目指すわけだが、その状態をニルビージャサマーディ(無種子三昧)と呼び、ヨーガスートラにおける最終的なゴールとしている。
もはや生まれてくる原因となる種子もなく、完全に自由な状態(独存・カイヴァリヤ)である。
最終的な状態を表す表現
いろいろな表現を用いているのは、道はひとつではないということも示しているのであろう。
世の中に様々なヨーガの道がある中で、比較的評価の高いヨーガスートラのなかにも、また様々なヨーガの道が示されているのである。
ヨーガスートラの行法によって至る最終的な状態を表す表現として、
- アサムプラジュニャータサマーディ(無想三昧)
- ニルビージャサマーディ(無種子三昧)
- ダルマメーガサマーディ(法雲三昧)
といったサマーディが出てくる。
サマーディについてはほとんど第1章で述べられているが、最終章で「ダルマメーガサマーディ」という名前が改めて出てくる。「ダルマ」は、美徳・正義・法・義務・道徳・信心・ご利益・天命、などの意味を持ち、仏教でも非常に重要な言葉として用いられる。
このサマーディに至った者は、揺るがない識別知(ヴィヴェーカ)を持ち続ける。
ちなみにラーマクリシュナ氏らの至っていた境地のことをニルヴィカルパサマーディ(無分別三昧)と呼ぶこともある。これも先程の「区別無き三昧」ということで同じものを指していると思われる。主客の対立を超えた真理を見る智慧を「無分別智」と呼ぶ。
皮肉なことに、「無分別」という言葉は一般にはネガティブな意味で用いられている。
最終的なサマーディに至るために、ひとつひとつ、妨げるものを手放していくための行法が、ヨーガスートラには示されている。
言葉に惑わされることなく、本質を識別しながら、ひとつひとつ煩悩を手放していく必要がある。