全てはプログラムのようだ。
物体、それを操る意識。
プログラムをつくったのは誰か?
プログラムのようではあるが、これは「私」なのか?
プログラムと「自我(真我)」を分ける鍵は、「反射(反応)」であろう。
プログラムは、インプットに対して、規定された反応を返す。
しかし真我の意志は、インプットなしに、無から生じる。
よく観察してみれば、ほぼ全てのことは、なにかのインプットから生じている。
自分で思いついた、と思うものも、よく観察してみれば「誰かのために」というような「きっかけ」がある。
反射を、一度全て捨ててみよ。
「反応しない」ということすらしない。
「受け流す」ことすらしない。
「水の如く」?…水というものをインプットしているので、それも惜しいが違う。
刺激に対して、無反応。「無反応をする」というわけでもない。
言葉にした時点でそれは無限の彼方へ逃げてゆく。
成すものではないが、それを成したとき、湧き出てくるものが真我の意志であろう。
刺激に対して適切な反応をするという「プログラム」との、決定的な違いを感じ取るのだ。