微細な波は、粗雑な波の乱れを整える
デコボコの砂場に、微細な振動を適切な強さで与え続けると、サラサラと崩れていつかは平らになる。
大きな振動を与えると、またデコボコに乱れる。
粗雑な肉体を整えるには、微細な心地よい波をしばらく浴び続けることが有効である。
微細な波として、電磁波・磁力・重力といったものがあり、エーテル次元では電磁波、アストラル次元では磁力、メンタル次元では重力が関わっているのではという考察をした。
参考:研究の軌跡_20250415 エーテル体と電磁波・アストラル体と磁力波・メンタル体と重力波
様々な微細な波によって、人の肉体は影響を受ける。
というより、それらの重ね合わせの最終的な結晶が肉体・物質世界なのだろう。
各体を整えるには、一つ上の周波数帯の波動が有効である。
同じ次元の力をぶつけると、より大きく乱れた波になることも多い(運良く整うこともある)。
同じ組織内の人間が、組織を客観的に観て立て直すことも、なかなか難しい(運良く立て直ることもある)。
中心も周縁もない、遍在の力
磁力や重力は、中心を持つ力であり、無限の彼方まで伝わるとはいえ、中心から遠ざかるにつれて弱くなる。
それでは中心を持たない、全ての場所に働く力もあるのだろうか。
そのような力は時空を超えるため、始まりも終わりもないのだろう。
ヨーガの経典の中で、よくそのような表現が出てくる。始まりも終わりもない、イーシュヴァラ。
神前やパワースポットで、そのような力を感じることがある。
そのような力はもはや「波」ではなく、一定の、時と位置に関わらず存在する「圧」のように思える。
波ではないということは、プラスやマイナスを超えている。二元性を超えた力。
「次元」を「周波数帯」などと混同されることも多いが、ここで初めて「次元」を超える力となるように思える。
「愛」あるいは「興味」、二元性を超えて「見守る」力
それは結局のところ「愛」と呼ばれるような力と同じものかもしれない。
愛は良し悪しの二元性を超えて、ただ「見守っている」。
あるいは綺麗事のような表現を避けるとしたら、ただ「興味」を持って「見守っている」ということかもしれない。
この世界は投影であり、ゲームであり、良い結果も悪い結果もなく純粋に楽しみながら見守っている存在がいる。
それを神というべきか、あるいは真の「私」なのか。
いかにして遍在の力を感じ取るか
そのような力は、本来どんな空間にもどんな時にも満ちていると思われる。
それは粗雑な波によって容易に覆い隠されてしまうため、感じ取れないのだろう。
また、「変化がない」ということは、科学的に計測することは今のところ不可能と思われる。
人間も、当たり前にあるものについては気づきにくく、変化が生じたときに初めて気がつく。なくなって初めて気づくこともある。
メンタル次元の純粋な思考すら、その遍在不変の力に比べれば二元的であり粗雑である。
一切の粗雑な波から離れることで、それを感じ取ることができる。
ゲームをプレイしている真の私、その主体から世界を観れば、様々なことに気づけるようになっていく。