ヨーガの哲学や、禅や老荘など東洋哲学を調べていくうちに、少しずつ「現代ヨガ」の違和感に気づくようになっていった。
たしかに現代ヨガで行われているアーサナは、エクササイズとしてもよくできたものである。
前回挙げた下記の本などのようなヨガに関する研究は多くなってきているようで、科学的に効果が示されている技法も多い。
「ヨガを科学する―その効用と危険に迫る科学的アプローチ」ウィリアム・J. ブロード (著), William J. Broad (原名), 坂本 律 (翻訳)
しかし、一般的なヨガスタジオで繰り広げられている一見キラキラした光景の中には、ほとんどヨーガ哲学が見えてこない。ヨーガは4500年だか5000年だか、歴史のあるものだということはインストラクター講座で聞いたが、一体どこまで本当なんだろう。そもそも現代ヨガと古代のヨーガはつながっているのだろうか?
同期のインストラクター仲間からは、ヨガスタジオのひどい雇用条件や内部でのクラスの取り合い合戦といったキナ臭い愚痴もよく聞いていた。私はどこかのスタジオに所属したことはないので、実際に体感したわけではないけれど、RYT200のような資格なら比較的簡単に取れてしまうので、資格を持っていても職探しに苦労しているというインストラクターもたくさんいるのだろうということは想像できた。
ヨガを伝えるはずの場所なのに、アヒンサー(非暴力)やサティヤ(誠実)のカケラもないなぁ、と思いながら横目で眺めていた。哲学を話してはダメとか、マントラを唱えてはダメとか、クラス内容は完全に固定されているとか、スタジオによってはかなり縛りがあるようだった。ビジネス的な流派としてテンプレート化するならば、それも仕方ない話かもしれないが。
そんなこんなで、私は自分なりにちゃんとヨーガ哲学も伝えていこうと思うようになった。
おそらく、同じように違和感を抱いて、私はちゃんと哲学を伝えよう!と思ったヨガインストラクターの人もたくさんいるのかもしれない。
しかしヨーガ哲学を伝えたいと思っても、本当に説得力をもたせるには、自分がしっかり実践している必要がある。そうなると、アヒンサーだけでもとても難しいのだ。
どこまで徹底して実践するべきなのか、それは社会生活(という表現が妥当かはおいておいて)とのバランスが重要になる。私もいつもバランスを取りながら進んできた。
完全にヨーガ哲学に基づいた生活を実践するには、かなり浮世離れしてしまうのではないかと思っていた。そうなってしまうと、「あの人のように生きるのはムリだ…」と思われてしまい、逆に説得力がなくなってしまう。なので、常に片足は社会生活に置きつつ、デザインの仕事もしつつ、できる範囲で実践していった。普通に東京で暮らしながら、それでもこれだけ健康に清々しく生きられるんだよということを示したいと思った。
「誠実」はわりと前から実践していたと思う。なので忖度を必要とする一般的な日本企業には適合せず、早々に独立したわけだが。人を判断する基準としても、「誠実さ」は一番大切にしてきたかもしれない。
さて、レッスンではアーサナを伝えるだけでも時間が足りていないという話は前回書いたが、そんな中で哲学も伝えていくのはおそらく難しい。
なので、さらに研究を深めつつ、記事を書き始めてみることにした。
ちなみにこういったテーマ(ヨガの歴史を解明する・ヨガを学問的に捉えるなど)の話では、下記の本もよく引用されるので、興味のある人は読んでみると良い。
「ヨガ・ボディ: ポーズ練習の起源」マーク・シングルトン (著), スズケー(ハート*フール) (イラスト), 喜多千草 (翻訳)
この作者、マーク・シングルトン氏の最新刊は、より研究が進んだ内容になっている(英語)。
「Roots of Yoga (Penguin Classics)」英語版 Sir James Mallinson (翻訳, 序論), Mark Singleton (翻訳, 序論)