私も「師」の端くれとして人々に接していますが、初期の頃から感じていたとおり、「伝えられる知識」には限界があります。
なにか知識を伝えるためには、言葉、ジェスチャー、音や色や形、生き様、その他いろいろな表現を用いることができます。
しかし根本的に、その人が求めるものは本人の中にある、ということに気づいてもらう必要があります。
外から授けるものではなく、内から呼び覚ます必要があり、それは本人が気づかなければ実現しないということです。
なので「師」ができることとしては、その気づきを導くためのヒントを出し、気づいて進み出した弟子の背中をやさしく押してあげることぐらいなのでしょう。
たとえそれが最短の道ではなかったとしても、自分でやろうと決めたことは、とにかくやってみて失敗した方が経験になります。進まずにその道を気にし続けているのも、無駄なエネルギーです。とにかく行ってみれば、その道が違っていたということに気づき、正しい道へ進むときの雑念が一つ減ることになります。
なかなか変われない人は、変えたいと思っている根因が自分の中にあることに気づかず、そこに気づいてもらおうとヒントを出しても拒絶反応を示し続ける。そこには原因はないと思い込み、あるいはそこは変えたくないと拒絶し、自分で呪縛をつくり続けてしまう。
私は少しでも早く進める道のりのヒントを示してあげますが、結局自分で気づかなければ変われない。でも、長い時間をかけて、やっと自分で気づいて変わり始めてくれた人を何人も見てきました。
そのときは私は自分のことのように嬉しいですし、とてもスッキリ清々しい気分になります。「自分のことのように」という感覚、自分を含めた世界全体の課題のひとつが解決したような、そんな感じです。
「師」は自分の限られた知識を売って満足するような存在ではないのだと思います。
知識は気づきのヒントになりますが、気づきを得られたあとには要らなくなります。
また、その知識はその人のその時点においてのみ有用なものです。
凝り固まった自分に執着せず、教わった知識やメソッドや健康グッズなどにも執着せず、自分の中にある原因に気づいて、自分から変わろうとし始めてくれることが、なにより「師」の喜びなのかなと思います。