人は生きているだけでも、常になにかを「表現」しています。
なんなら生きていなくても、表現しているかもしれません。たとえば「死に様」も後世の人に影響を与えます。
長く健康に生きられれば正解、とも限らないでしょう。不健康で、短い人生で、人々に大きな影響を与えた人もいます。
じゃあ人々に大きな影響を与えなければダメな人生かというと、そうでもない。
良い人生かどうか、などというのは誰にも決められないし、誰もが決められるとも言える。
しかし誰しも少なからず、人々に影響を与え、影響を受けています。
産まれ方・生き方・死に方、全部表現であり、その表現は必ず誰かに影響を与えているはずです。
そこには必ずなにか条件・制限があって、その環境下でどう振る舞うかというのが、表現の醍醐味なのでしょう。
なんでも創造できてなんでも思い通りになる環境では、表現というものの面白さがありません。
不自由だからこそ、面白い。
ここはそういう次元の世界なのだと思います。
自分らしい生き様、自分らしい表現のヒントは、自分の中にもあれば、周りの世界全てにもあります。
でも、自分らしくない、他人のことばかり意識して、やりたくないことをわざわざ選んで「仕事」にしている人々が多いようです。
自らやりたくないことを選んで、たくさん時間とエネルギーを使う実験。
それもまた経験。
私もそれを何年か、やってました。
やらなければ、わからない。
最初は、やりたいことだったんだと思います。やってみたら、じつはやりたくないことだった。あるいはやりたくなくなった。
いいじゃないですか。世界も自分も、変化していきます。
執着しないことです。やりたくないと気づいたのなら、変えていけばいい。
今の自分らしい、エネルギーを無理に費やさず自然に湧き出る表現を、してみたらいいと思います。
やっていて疲れる・つらい・なんだかすごく周りと衝突する、エネルギーが枯渇してしまうような表現は、違うのかもしれません。いろいろ試してみれば良いでしょう。
表現がなにかの役に立ったり心を打ったりすれば、お金や感謝などが返ってきます。それが仕事と呼ばれているものの自然な形のような気がします。
しかし報酬や反応だけを求めて行う表現は、執着へと変わります。
執着は、本人も気づかずに囚われていることも多い、強力な煩悩です。
何か解決したい課題があるとき、執着が原因であることも多いです。しかし、いままでそこに立脚していたわけなので、それを手放すことはとても難しいこともあるでしょう。
気づいた時にはがんじがらめの執着に囚われていることも多いですが、落ち着いて少しずつ、手放せるものから、手放していくと良いでしょう。
あるいは、執着に囚われているなーというのを客観的に眺めながら、そういう生き様を表現するのもまたひとつの人生の試みです。
常に、巻き込まれないように、楽しみ、自然に湧き出る表現をし続けるのが良いと思います。
生き方も、死に方も、自然に。


