以前、アーユルヴェーダなどの考え方から「何を食べるべきか」シリーズを書きましたが、今回は少し哲学的な観点から考えてみたいと思います。
少食を基本とする
基本的に、私達は命あるものを食べて生きています。つまり生き物を殺しているということになるので、そこに様々な宗教や哲学が関わり、多様な倫理観・価値観が存在しています。
何を食べるべきか、それは人それぞれで判断すれば良いと思います。他人に押し付けるものではありません。
ただ、命をいただいている以上、無駄にはしないようにするのが良いでしょう。
原則としてはやはり「少食」というのが、心身の機能的にも、哲学的にも、良いような気がします。
とにかく、食べすぎている人が多いです。食べすぎてもそれはプラスにならず、余計なものを取り入れてしまい、また消化活動に血流と気力も割くことになってしまいます。
余計なものを省いて、心身を活発にしてくれるものを自分で選び、なるべく少なく食べるということは基礎として良いと思います。
参考:食べすぎない 〜「極少食」16世紀のイタリア人・ルイジコルナロの教え〜
一体なにを食べて(取り入れて)いるのか?
私達はたくさん食べ物を食べますが、ほとんどは排泄してしまいます。それはなんの栄養もなくなったカスというわけでもなく、肥料にもなる栄養がたくさん残った排泄物です。
ご丁寧に精密な化学工場(胃腸)でエネルギーを費やして消化したあとに、栄養をたくさんのこした物質を自然界に還しているわけですが、それでは一体私達はなにを取り入れているのか、なんのために食べているのか?
そこには「気(生命力・活力)」というものが関係しているような気がします。
新鮮なもののほうが生命力があり、食べることで活動する力につながるという感覚は、誰にでもあるものだと思います。
つまり新鮮でないものをたくさん食べるよりも、生命力のあるものを少量食べるほうが、いろいろと無駄が少なくなります。
また、「味」も大切な要素です。私達は口の中で噛んで味わうという数十秒のためだけに、多くの手間とお金を使って料理を作ったり食べに行ったりします。
これはまったく無駄なことではなく、味わう・幸せを感じる、ということが「気(生命力・活力)」にとっては非常に重要なエネルギーになるのだと思います。
胃に入ってしまえば同じだろう!などということはまったくないわけです。胃にチューブをさして食べ物を送るとか、点滴をするなどということを続けていれば、確実に生命力は衰えていきます。「味」も活力として取り入れているのだと思います。
このように、栄養価以外にもいろいろな次元の要素に気づきながら食事をすることで、無駄なもの・自分にとって害のあるものを避けることができます。
なので、倫理観に基づいているとはいえマズイと思うものを食べ続けていては、生命力にはつながらないのだと思います。倫理観的にも納得できて、しかもおいしいと思えるものを食べるのが良いでしょう。
いろいろなことに気づきながら食べるためには、本当は「黙々と食べる(サイレント)」がオススメです。インドのヨガ生活での食事もすべてサイレントで行っていました。多くの家庭では食事中こそいろいろしゃべる機会になっているかもしれませんが、本当は食事は集中して行い、食べ終わってからしゃべるほうが良いかもしれません。試してみる価値はあると思います。
では、何を食べるべきか?
人それぞれ味の好みも体質も倫理観も異なるため、たとえば家族といえども同じものを食べる必要はないのです。手間がかかるので、別々のものをつくるわけにもいかない場合が多いと思いますが。
何を食べるべきか、基準はそれぞれ決めれば良いと思いますが、いくつかヒントになる要素を挙げておきます。
まず栄養や活力、体質といった観点からは、下記のような要素があります。
- 生命力の含まれているもの(滋養のあるもの、新鮮なもの)
- 体質や現在の心身に合ったもの(アーユルヴェーダのドーシャなどを参考にする)
- 自然に、自分が食べたいと感じるもの
以前の記事でこれらについては書きましたので、ここでは少し哲学的な、倫理観的なところで、下記のような要素を考えてみましょう。
- 動物・植物で分けて考えてみる
- 「他者への恵み」として与えられているかどうかで考えてみる
動物・植物で分けて考えてみる
動物を屠殺するところをしっかり見ておくという教育があります。動物が死ぬところを見るのはつらい・かわいそう、と感じるのが大半の人々の感覚でしょう。そういう感覚があるということは、人間は動物を食べるべきではない、と断ずる人々もいます。
ただ、植物ならいいのでしょうか。伐採される木々を見たら、かわいそうと感じる人も多いと思います。
程度の違いはあれど、動植物問わず、命が絶たれる瞬間を見るとつらい感覚が起こるのは自然なことだと思います。
この感覚に基づいて考えると、食べるものがなくなってしまうような気がしますが、この世界には命を絶たずに分け与えてくれる存在もたくさんいます。
「他者への恵み」として与えられているかどうかで考えてみる
りんごの木は、その命を削ることなく、りんごを分け与えてくれます。
捉え方は様々でしょうけれども、これはなんとなく「他者への恵み」として木が与えてくれているように感じられます。
その最たるものはバナナかもしれません。すぐに手でむける皮に包まれ、携帯にも適していて、しかも栄養がある。人や猿などに食べさせようとして存在しているかのようです。
このような、命を絶つことなく分け与えられている(ように感じられる)ものとして、果物、芋や豆類などが挙げられます。
穀物は刈り取られてしまうので微妙なところですが、他者への恵みと次世代の種を兼ねた実を大量に実らせていると捉えると、近いかもしれません。
生物を単体として捉えるのではなく、動植物は「種」として生存していると捉えると、このあたりの解釈も大きく変わってきます。
牛乳、卵、蜂蜜なども他者への恵みであると捉えることもできるかもしれません(品種改良や、搾取されているのがかわいそう、牛は結局草をたくさん殺すのでダメ、などの考え方もありますが)。
フルータリアンの中でも自然に落ちてきた果物しか食べないという徹底した考え方の人々もいるようですが、他者への恵みとして与えられている食べ物は、果物以外にも結構いろいろあるような気がします。
気づきを働かせて自分で判断する、人に押し付けない
これは食べてもいい、これは食べてはだめ、などという基準は誰が決めるのでしょう?
そんな決定権が人間にあると思っているとしたら、それこそ傲慢です。
なので、人それぞれが自然に食べたいものを食べればいいのだと思います。
動物を食べないようにしよう、という動機にしても様々です。かわいそうだと思うから食べない人もいるし、動物の飼育には自然破壊を伴うのでエコの観点から食べないという人もいます。
何を食べるかの判断には、それぞれの「気づきの次元」あるいはインテグラル理論的に言えば「発達」の度合いが関わってくるので、次元が異なっている人と議論しても噛み合わないままケンカになってしまいます。
参考:かみあわない主張が飛び交う理由 〜人間がたどる「発達の螺旋」(インテグラル理論)〜
もし久しぶりに会った友人が、全く食生活を変えていたとしたら、なにかに気づいたのかもしれません。
倫理観の違う人に出会ったとしても、反射的に批判せず、多様性を楽しみ、ヒントにできるものがあれば取り入れてみるのが良いと思います。