最近、新しい場所で瞑想をお教えする機会があったので、少しまとめなおしました。
知識として瞑想を勉強し始めると、本当に多様な分野に発散してしまって、いろいろな宗教について調べることにもなり、キリがありません。
なので、昔の人たちは「瞑想することで、どうなりたかったのか?」「なぜそれが必要だったのか?」といったことを考えてみると、少しとっつきやすくなるかと思います。
「集中」と「瞑想」
「集中」はある1つの対象に対して心を1点に定めること。
集中には努力が要りますが、練習を積むと、集中をとぎれないようにしていくことができます。
「瞑想」とは、集中が自然に連続した状態。
(または、それに至るための練習「瞑想法」のことをただ「瞑想」と呼ぶこともあります。)
この状態は、油を垂らす様子に喩えられます。
集中は、油が1滴1滴とぎれとぎれに下へ垂れている状態。
瞑想は、油が途切れずに1本の筋になって垂れている状態。
油の筋を見ると、見た目にはどちらからどちらに流れているのか分かりません。
瞑想状態になると、対象と自分が1本の筋でつながって、対象のほうから向かってくるような感覚にもなります。
「瞑想法」は、適切な対象を選び、集中を連続させるための練習です。
練習を積めば、どんな対象でも、瞬時に集中した状態になり、途切れないようにすることができるようになっていきます。その対象が「仕事」などでも…。
これが「集中力がある」という状態でしょう。
仏教における定義「止観」
仏教では瞑想が2種類に分けられて定義されています。ヨーガにおいては明確に分けて定義はされておらず、ヨーガの瞑想には両方の概念が込められています。
集中力を養う瞑想を総じてサマタ瞑想(止)と呼び、洞察力を養う瞑想をヴィパッサナー瞑想(観)と呼びます。
ヨーガは仏教よりも歴史は古く(約4000〜5000年前)、その瞑想には確かに両方の概念が込められていたようなのですが、長い年月の間、ヴィパッサナー瞑想の概念は失われてしまっていたようです。
仏教を開いた釈迦(約2500年前)はサマタ瞑想を行って悟りに至ろうとしましたが、それは不可能でした。
なので、古いヨーガの行法を紐解いて、ヴィパッサナー瞑想を復活させて、洞察力と集中力を用いて悟りに至ったと言われます。
そのためか、仏教では明確に分けて定義されて伝えられていて、宗派によってはヴィパッサナー瞑想は本当に高度な修行法として扱われています。
前項で述べていたのは、言葉通りの意味で言えば、サマタ瞑想ということになるでしょう。
余談:「観察」と「洞察」の違い
単なる言葉遊びですが、観察と洞察の意味の違いについて調べてみると、「洞」は洞窟のように岩を突き抜けるような意味があり、物事をより本質的に悟り抜くような意味があるようです。
瞑想について説明する場合は「洞察」のほうが適している気がするので、最近私もこちらを使うようにしています。
「洞察」の瞑想:ヴィパッサナー瞑想
洞察力がある状態とは、物事を本質的に観ることができ、いろいろなものに隠されていて観ることができないような真理を知ることができる状態でしょう。
本質的に観るためには、余計な知識や先入観、そしてそれらから生み出される全ての心の「反応」を抑えていく必要があります。反応とは、簡単に言えば好き嫌いといったものです。
歪んで曇った鏡には、対象物は明確に映りませんが、澄んで平らになったとき初めて明確に映り、本当の姿を観ることができます。
心とはこの鏡のようなもので、物事を捉えるための大切な道具なのですが、様々な要因によって歪んで曇っているのが普通でしょう。
ヴィパッサナー瞑想は、心の歪みや曇りを除いていく具体的な練習法です。
では、なぜ集中力と洞察力、両方が必要なのか?釈迦もそれを必要とした理由は?
↓こちらの記事も参考にしてみてください。